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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2022/01/08

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

「心は田舎娘のまんま」

 また三島由紀夫は「(略)日本が勝ち、選手たちが抱き合って泣いているのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生まれてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である」と記述。あの三島が試合を見ながら涙を流したとはにわかに想像し難いが、彼の文章を読む限り、いかに東洋の魔女に傾注していたかが分かる。

日本中の注目を一身に集めた ©共同通信

 冷徹な視点を持つ文豪たちのこれほど熱い文章に接すると、東洋の魔女が当時の日本人の心をいかに高ぶらせ、影響を与えていたかが伝わってくる。

 五輪後、魔女たちは日本人の注目を一身に浴びることになった。常にそんな視線を注がれていれば、若い女性たちが浮き足立っても当然のはず。だが河西は、誰1人として勘違いする仲間はいなかったと誇らしげに言う。

「色んな街でパレードもしたし、祝賀会も随分していただいたけど、私たちは当たり前のことをやってきただけなので、勝ってよかったという安堵の気持ちしかなかったですね。確かに、マスコミに散々取り上げられたので、名前は有名になったかも知れないけど、心は田舎娘のまんま。みんなも全く同じでしたよ」

 ただ、と少し語気を強めて言う。

「青春を犠牲にして金メダルを獲ったとか、世界一になったというような言われ方をしてきましたけど、それがすごくいやだったし、抵抗感があった。別に青春を犠牲にしてきたわけでもないし、何かを棒に振ったということもないし、ただ自分の好きなことに打ち込んできただけなんです」

 日紡貝塚のチーム監督で、全日本を率いた大松博文のスパルタは、全国に知れ渡っていた。大松の常套句「根性」「黙って俺について来い」「為(な)せば成(な)る」は、当時の流行語にもなっている。

 この文字だけを見ると、ワンマン監督が選手をねじ伏せ、無理やり特訓を強いている構図が浮かぶ。しかし、大松に強制的に練習をさせられたという感情は、当時の選手たちの誰1人として持っていない。無論、手を上げられた人もいない。

 むしろ、選手のことを第一に考える指導者だったと魔女6人は口を揃える。

 回転レシーブをいち早くマスターし、守備の要として活躍した松村が、笑いながら語っていたことがあった。

「練習はそりゃ、厳しかった。でも今考えると、どうしてあれだけの練習量をこなすことができたんでしょうね。辞めようと思えばいつでも退部できたんです。でも、誰も逃げ出そうとしなかった。先生(大松)についていけば、金メダルを獲れると信じていたんですけど、実際は金メダルなんて獲ったことがないからどんな価値があるか分からない。もちろん身体は辛かったけど、どこかみんなで金メダルという遊びを懸命に楽しんでいたのかもしれない」

 だが、やがて大松が選手に向けた血を吐くような練習は「根性バレー」と言われ、バレーだけでなく日本スポーツ界に選手の精神を鍛える金言として定着、「根性」という言葉がもてはやされるようになった。大松を称した「カリスマ」も指導者の理想像として崇められ、強いチームを作るためには、カリスマ指導者の下で従順な選手たちが特訓を重ねて初めて栄光にたどり着くという、昨今のパターンが出来上がったといってもいい。