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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「もし、この試合に負けたら日本には住めない」女子バレーが日本の“お家芸”となった日

日の丸女子バレー #7

2022/01/08

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

 2012年のロンドン五輪で銅メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。その監督を務めた眞鍋政義氏(58)が、2016年以来、5年ぶりに日本代表監督に復帰することが決まった。2021年10月22日、眞鍋氏はオンライン会見でこう述べた。

「東京オリンピックで10位という成績にかなりの危機感を抱いている。もし(2024年の)パリ大会に出場できなかったら、バレーボールがマイナーなスポーツになる“緊急事態”であるということで手を挙げさせていただいた」

 女子バレーは2021年の東京五輪で、“初の五輪女性監督”中田久美氏(56)が指揮を執ったが、結果は25年ぶりの予選ラウンド敗退。1勝4敗で全12チーム中、10位に終わった。

 正式種目となった1964年の東京五輪で、記念すべき最初の金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー。だが、その道のりは平坦ではなかった。半世紀に及ぶ女子バレーの激闘の歴史を、歴代選手や監督の肉声をもとに描いたスポーツノンフィクション『日の丸女子バレー』(吉井妙子著・2013年刊)を順次公開する。(全44回の7回。肩書、年齢等は発売当時のまま)

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“東洋の魔女”の強心臓を見た

 金メダリストの魂は幾星霜を経ても決して失われることはない。そんな思いを強く抱いた。

 日本を不安と恐怖と絶望に陥れた2011年3月11日午後2時46分――。私は、東京五輪で金メダルを獲得した女子バレーボール日本代表主将・河西(現中村)昌枝と都内のホテルで遅い昼食をとっていた。

 長身の背筋をぴしっと伸ばし、長い脚を速いリズムで交差させる姿は、間もなく80歳を迎える女性とはとても思えない。髪は1本も乱れることなくセットされ、爪は薄いピンクのマニュキュアが塗られプルンとしている。声にも張りがある上に艶やかだ。

“東洋の魔女”の主将だった故・河西昌枝さん ©文藝春秋

 数カ月に1度会食する会話のコースはほぼ決まっていた。河西には40代の長男、長女、次男の3人の子供がいるが、その子供たちの最近の話をスターターに、メインディッシュは彼女がはまっている韓流スターの話題、そしてデザートには最近の女子バレーの雑談となる。

 韓流スターの話をするとき、彼女の表情は一挙に輝く。目の下をうっすらとピンクに染め、恥じらいながら言葉を選ぶさまは、何とも可愛らしい。話の内容があまり理解できないこちらも、つい釣られて微笑んでしまう。

 昼食も終わりかけていた。彼女がアイスコーヒーと数種類のケーキを乗せた皿をテーブルに置いたときだった。

 床の下から突き上げるような揺れが来たと思った瞬間、天井のシャンデリアが大きく揺れた。テーブルのグラスやコップが耳障りな擦れ音を響かせている。カップからコーヒーがこぼれ、真っ白なテーブルクロスが茶色に染まった。店内のあちこちから、恐怖を含んだ金切り声が上がる。

 この揺れはただ事ではないと分かった。全身を恐怖がじわじわとからめとっていく。多くの客はテーブルの下に身を隠し、レストランがある本館より新館の方がまだ安全と考えた私は、移動しようと河西の腕を引っ張った。

 ところが河西は顔色ひとつ変えず、慌てふためいている私をたしなめる。

「こういうときはジタバタしてもしょうがない。移動している途中にモノが崩れて怪我でもしたら、やっぱりとどまっていれば良かったとなるでしょ。何が最善の方法か分からないときは、とにかくじっと周りを観察して判断した方がいいの」

 しかもレストランのスタッフが、「近くの公園に誘導しますから、避難して下さい」と声を嗄(か)らしているのを尻目に、再びフォークを動かし始めたのである。