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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「もし、この試合に負けたら日本には住めない」女子バレーが日本の“お家芸”となった日

日の丸女子バレー #7

2022/01/08

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

note

「日本人は逆境に強い民族だから」

「大丈夫。これ以上強い余震は来ないから」

 人間は、自分の経験やイメージの限界を超えるアクシデントに遭遇すると、未知への恐怖が募ってパニック状態に陥り、その人間性が露(あらわ)になる。河西は激しい揺れにまったく動じなかった。

 ひとまず外に出た。どこからともなく聞こえてくる携帯のワンセグ放送やラジオの緊迫した声から、想像を超える自然災害が発生したことが判明した。ホテルの周辺に集まった大勢の人々は興奮状態に陥っているのか、見知らぬ者同士が絶え間なく言葉を重ねている。

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日本に甚大な被害をもたらした東日本大震災 ©文藝春秋

 そんな中、河西は泰然自若とした態度を崩さず、呼吸も乱れていなかった。ゆったりと宙を見つめ、独りごちた。

「被害がどれだけなのかまだはっきりとは分からないけど、大変なことが起きてしまったんだと思うなあ……。でも、日本人は、逆境に強い民族だからよりタフになって甦るかも」

 被害状況は何も分かってもいないのに、日本のこの先を口にするなど、この人は何を言っているのかと、私は眉をひそめたくなった。だがすぐに、河西は、日本が戦後の面影を色濃く残し、新興国といわれていた時代に金メダルを獲得した、あの“東洋の魔女”の主将だったと思い出した。

 日本がまだ貧乏だったあの時代、体格に恵まれず、科学的なトレーニングにも無知だった頃に、金メダルを獲得しているのだ。いわば、未知の世界に足を踏み入れ、その都度正しい判断を積み重ねてきたからこそ、世界一の座に就くことが出来たのだ。

 河西の呟きには、不思議な説得力があった。

 首都圏の電車は止まり、神奈川県川崎市に住む河西を何とか家に帰そうとタクシーを探すが、一向に捕まえられそうになかった。「ホテルには迷惑をかけてしまうけど、ロビーで一夜を明かしましょ」という河西の1言で、覚悟は決まった。

 夜8時を過ぎると、サラリーマンやOL、あるいは外国人旅行客が急場をしのごうと、次々にロビーへ集まってきた。その数、100人ほど。携帯電話が繫(つな)がらなくなったせいか、誰もがみな不安顔だ。

 そんな帰宅困難者たちに河西は、進んで声をかけた。年配の人たちは東洋の魔女の河西と知るや、曇った顔がパッと華やぎ、会話が生まれる。

 彼女は決して自分の知名度をひけらかすような人ではない。むしろ、昔の栄光に蓋をし、平凡な生き方を貫いてきた。そんな河西が見知らぬ人たちに声をかけている。驚いている私に、照れくさそうに呟いた。

「ここに集まった人たちは、行き場のない不安で胸が潰れそうになっているんじゃないかな。スポーツのことを話していれば、少しは気がまぎれるでしょ」

 金メダリストの心の強さは、メダルを獲る瞬間ばかりに発揮されるのではない。本当の強さは、人生の不慮、不測の事態のときにこそ発揮される。しかも、その輝きは50年近く経っても、色あせることはなかったのだ。

 これまで幾度となく言葉を重ねてきたため、彼女が金メダリストであることを忘れかけていた。それだけ普通の会話に終始してきたのだ。

 しかし、80歳近い河西が深夜にもかかわらず、不安に身を竦(すく)めている人々に話しかけ笑顔を取り戻させている姿を見て、戦後をまだ引きずっていた当時の日本人に東洋の魔女がどれだけ勇気を与えたか、資料で読みこなしてきたものが、時を越え、実像として目に迫ってきた気がしたのである。