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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2022/01/08

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

貴賓席に座る美智子妃殿下にも笑顔はない

「世界中の青空を全部東京に持って来てしまったような、素晴らしい秋日和でございます」

 NHKアナウンサーの名調子が日本中に届く。1964年10月10日、第18回オリンピックが東京で開幕した。93の国と地域が参加した東京五輪は、アジアで開かれた最初の大会だった。同時に日本が先進国に脱皮出来るかどうかを占う、国家的な「宴」でもあった。

 この大会からテレビ衛星中継がはじまり、池田勇人内閣が掲げた「所得倍増計画」で経済成長をした日本を、世界中の人たちにアピールし、先進国の仲間入りを演出する打ってつけの舞台である。そのためには日本人選手の活躍が欠かせない。熱気を帯びた日本列島の視線を一身に集めたのが、東洋の魔女だった。

 敗戦から19年、「戦後は終わった」と言われながら、日本人の負った心の傷はまだ癒えていなかった。事実、地方都市には未だ白衣を着た傷痍軍人が切断された手足を見せながら、アコーディオンで悲しげな軍歌を奏で糊口をしのぐ姿も見受けられ、池田首相が訪仏した際、ドゴール大統領には「今日はトランジスタラジオのセールスマンと会う約束がある」と言われたほど、当時の日本は世界の中で軽い存在でしかなかった。誰もが、日本人としての誇りを取り戻し、世界に胸を張って生きたいとの願いを、五輪選手に託していたのだ。

 日本は体操や柔道、レスリングなどメダルラッシュに沸いた。小柄な日本人選手が欧米選手を打ち破るさまはいかにも小気味よく、日本人が心の奥深くに閉じ込めていたプライドを取り戻すには十分だった。

 そんな国民感情の総仕上げというべき試合が、閉幕前日に行われた女子バレーの決勝戦だった。相手は強豪の旧ソ連。しかもソ連には、日本人が数多く拘留されたシベリア強制収容所の苦い思い出がある。負けることは許されなかった。そのソ連は、この決勝戦まで1セットも落とすことなく勝ち上がってきている。

 会場となった東京・駒沢屋内球技場は、咳をするのも憚(はばか)られるような異常な緊張感に包まれていた。貴賓席に座る美智子妃殿下にも笑顔がない。

 日本のスタメンは、主将でセッターの河西(当時31歳)、左利きのエース宮本恵美子(現寺山=28歳)、同じくエースの谷田絹子(現井戸川=25歳)フェイントの名手半田百合子(現中島=25歳)、回転レシーブではチーム一の上手さを誇っていた松村好子(現神田=23歳)、高校卒業と同時に代表に加わった磯辺サタ(現丸山=21歳)である。

引退後、取材に応じた“東洋の魔女”のメンバーたち

 東洋の魔女は順調に勝ち進んでいた。米国、ルーマニア、韓国をいずれもストレートで下し、ポーランド戦では1セットを失ったものの、スタメンを下げ、控えメンバーで闘う余裕ぶりである。

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