「自分の人生より、メンバーの方が大事だった」
それにしても、母国開催の五輪の出場を選手に決めさせるというのは驚きである。大松がいかに選手の意思を尊重していたかが分かる。
選手らは、河西がやれば付いていくし、引退なら自分たちも辞めるといい、下駄は河西に預けられた。河西は散々逡巡した挙句、世間の期待にはあらがえないと覚悟を決めた。肝臓を傷めていた増尾は引退を決めたものの、残る5人は東京5輪まで現役を続けることにしたのだ。宮本が言う。
「私は引退をするつもりで荷物もまとめていたけど、河西さんがやると決めた以上、私たちは抜けることが出来ない。日紡貝塚は完成したジグソーパズルのようなチームだから、1人でも欠けたら機能しなくなると皆分かっていましたからね。だから互いに迷惑をかけたくないから辞められなくなってしまったんです。私たちは自分の人生より、メンバーの方が大事だった」
大松は10年の歳月をかけ、智恵と知識と全精力を注いで手がけてきた芸術作品が、東京五輪で金メダルを獲得し、遂に完成の瞬間をみたとき、得も言えぬ複雑な表情をした。
日本中に日の丸が振られ、会場が沸き、選手が歓喜の涙を流している中で、ただ1人、どこか寂しそうな顔つきになっていた。大松は後に述懐している。
「あのときの気持ちはなかなか表現できない。何か、身体が床の底に沈んでいく気がしたんです」
敗戦の影を引きずっていた日本人の心に夢と勇気と誇りを与えたとき、同時に大松の夢は終わりを告げたのだ。