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「師匠はずっと最前線にいるじゃないですか」高野智史は木村一基の“遠い背中”を見つめる

「師匠はずっと最前線にいるじゃないですか」高野智史は木村一基の“遠い背中”を見つめる

『絆―棋士たち 師弟の物語』より

2021/12/30
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 この時期、高野の父親は木村から手紙を受け取っている。

「息子は思うように前に進めていないが、長い目で見てやってほしいと書いてあったのを覚えています。その頃にはインターネットで奨励会の成績を見られましたから、私も智史が足踏みしているのは感じていました。息子はもともと天才的な才能があったわけじゃない。先生には、智史の努力を支えていただいたことに感謝しています」

 高野は19歳で奨励会三段リーグに入ると、4期でリーグを抜けてプロ入りを果たした。目標を聞かれても、目の前にある現実的なことしか口にしない。将来、タイトル戦に出たいなどと決して言わない。通算勝率6割、それが自分に課していることだという。2019年の第50期新人王戦決勝三番勝負進出は、高野にとって初めての大舞台だった。

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新人王戦に敗れた日の夜、木村から届いた助言

 新人王戦第3局。朝、高野は先に特別対局室に入った。グレーのスーツに身を包む。そぎ落とされたように、引き締まった表情をしていた。視線が微動だにしない。

 

 高野にとって棋戦での決勝進出は初めてだった。同世代の活躍が目立つ中で、正直出遅れていた感はある。対戦相手の増田康宏六段は、すでに新人王戦で2度の優勝があり、エリートコースを歩んできた俊英だ。増田有利の声も耳に届いたはずだが、「それで奮起する気持ちがわいたわけではない。自分の中で気持ちは完結していた」。

 三番勝負の第1局に敗れた日の夜、木村からメールが届いた。翌日に師弟での研究会を予定していたが、木村に急用ができてしまい、日を改めてほしいとの連絡だった。お詫びの言葉に添えて「番勝負は1つ勝てば想像以上に流れが変わることがあります」と書かれていた。

 対局の前日はいつも眠れないと高野はいう。普段から寝つきが悪いらしい。「将棋の局面が浮かんで、考え始めると眠る気力もなくなります。布団に入ったまま、少しまどろんで朝を迎える感じです」。第3局の朝も同じだった。

 昼食の注文はしなかった。いつも食べないことが多い。師も昼食を取らないことが多いが、「そこは影響を受けたわけではない」という。休憩に入って15分後、筆者は廊下で対局室へ戻る高野とすれ違った。その表情を見て足がすくんだ。己の意識の中に何者の侵入をも許さない気迫を感じた。

 夕刻になると、何人かの若手棋士が記者室に顔を出した。新人王戦のモニターを観ると黙って出ていく。局面が高野優勢になった頃、若手強豪の佐々木大地五段も姿を見せた。長身痩躯の身体に、スーツがよく似合う。部屋の隅に座って局面を見る。検討していた棋士たちが、彼の存在を意識したのは声のトーンでわかった。強さを認められた者が纏う空気。佐々木はモニターをしばらく見つめた後、「高野さん、強いですね」と言った。立ち上がると、室内に深く礼をして出て行った。

 優勝を決めた後の高野はうれしそうだった。朝とは別人のように優しい顔をしていた。今後の目標を聞かれて、考えた後に、「とりあえず五段になることですかね」と答えた。