将棋界における師匠と弟子の関係性が注目を集めている。スポットライトが当たったのは、のちに将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞した『師弟~棋士たち 魂の伝承~』(野澤亘伸著/光文社)の存在が大きかっただろうか。
現在、ABEMA将棋チャンネルでは「第1回ABEMA師弟トーナメント」が放送されている。そこで、同トーナメントにも出場している森下卓九段と増田康宏六段について、『師弟』から一部を抜粋して紹介する。
6歳の天才との衝撃の出会い
2007年、10月も中旬だというのに、季節外れの台風が朝から激しい雨を降らせていた。その日、棋士・森下卓は、東京・八王子市の将棋クラブを訪れる約束があった。昼前に道場の席主・八木下征男からは、「天候が悪いので日を改めましょうか」と連絡があったが、森下は予定通り夕刻に訪ねることを伝えた。
この数日前に森下の許に、八木下から手紙が送られてきていた。封の中には、八木下の丁寧な字で書かれた推薦状と将棋の3局分の棋譜が入っていた。子どもの指した将棋だった。
駅の改札に八木下が迎えにきていた。雨の中、駅前の通りを将棋クラブのあるビルまで歩く。午後5時に閉められた教室には母親と小学生の男の子が待っていた。互いに丁寧な礼を交わす。4年生にしてはすらりとして背が高い。眼鏡をかけた口数の少ない男の子だった。
少年の名前は増田康宏といった。森下は改めて彼を見つめた。
「この子が、あの将棋を指したのか」
送られてきた棋譜を見たときの衝撃は忘れられない。目の前にいる少年に、どれだけの可能性が秘められているのか。森下は胸が高鳴るのを抑え切れなかった。
八木下の道場を増田が初めて訪れたのは、2004年2月。まだ幼稚園に通う6歳の子どもだったが、道場四段の小学6年生にいきなり連勝してしまう。このとき増田は将棋のルールを覚えてまだ1年しか経っていなかった。
小学校に入学した増田は、秋から八王子将棋教室に定期的に通うようになる。初段からスタートし、ひと月後には三段、半年後には四段になった。幼稚園でルールを覚えてから、アマ四段になるまで2年しかかかっていない。八木下が将棋教室を始めて30年、それまでの昇段や大会優勝の最年少記録を次々と塗り替えていく。そして増田は9歳で小学生の全国大会倉敷王将戦・高学年の部で優勝する。八木下は言う。「あまりの強さに驚くしかなかった。私もたくさんの子どもを見てきましたし、プロになった子も何人もいます。しかし、これだけの才能を見せられたのは、羽生さん(善治九段)以来でした」。