「君は羽生さんを超えるんだよ」
八木下から森下に連絡があったのは久しぶりのことだった。住所がわからなかったため、手紙は連盟宛に届いた。弟子入りの依頼であることは予想がついたが、正直あまり乗り気ではなかった。森下はそれまで3人の弟子をとったことがあるが、いずれもプロになることはできなかった。10代のかけがえのない時間を将棋だけに賭けて、夢破れていった子たちを思うと、もう弟子を取るつもりはなかった。
同封された棋譜を見た。プロ棋士は文字で記された100手以上の将棋を、30秒足らずで頭の中の将棋盤で再生できる。森下の目が棋譜に釘づけになった。3局とも何度も見返した。
「これを小学4年生が指したというのか。信じられない」
それほどまでに、増田の将棋には非凡なものがあった。「すでに、プロの感覚を持っている」。森下はすぐに八木下に電話を入れると、自ら会いに行くことを告げた。
増田が棋士の養成機関である奨励会に入会すると、森下は自宅での研究会に呼び指導対局を重ねた。将棋界では伝統的に師が弟子に教えることは少ない。職人の世界のように“技は黙って盗む”という考え方がある。しかし、森下は自らの経験を弟子に伝えることを惜しまなかった。
研究会の日、昼食をともにしながら、将棋一本に打ち込まねばダメだと言い聞かせた。修行時代に気持ちが他のものに向くと“心に空洞”ができる。それは後からでは埋めることができない。トップ棋士になるためには、空洞は許されない。
森下は言った。「君は羽生さんを超えるんだよ」。増田は「はい」と頷いた。