増田は中学生でのプロデビューは逃したが、16歳で四段昇段を果たした。新人王戦を連覇するなど期待通りの活躍を見せるが、順位戦C級2組では足踏みをする。迎えた3期目、最終日に勝てば昇級の一番に、増田優勢の局面で、ミスから自玉に詰み筋が生じた。しかし秒読みに追われた対戦相手が詰み筋を発見できずに投了。増田の昇級が決まった。森下は言う。
「勝負はまず実力があってですが、ツキというのも極めて重要なことだと思っています。昇級のかかった一番で、命拾いをした。これは増田の持って生まれた天運です」
息子には「そんな世界で生きていけるのか」
森下は心から愛した将棋を自分の子どもには教えなかった。息子・大地は幼少時から研究会で自宅に来る棋士の姿を見ていた。父たちが真剣に盤に向かう姿に憧れ「将棋を教えて欲しい」と言ったが、森下は頑なに拒んだ。
「お父さんは小さい頃に福岡から上京して、将棋一筋で生きてきた。本当に厳しかった。勝負の世界は常に勝ち負けしかない。そんな世界で生きていけるのか」
大地は父と違う俳優という道に進んだ。事務所に入るときに、母親は大学に進学することを条件にしたが、森下は口を挟まなかった。「将棋しかしてこなかったから、それ以外の人生の考え方がわからない」が理由だった。
森下は増田に自らが果たせなかった夢を見た。自分が師・花村から託された思いにあと一歩まで迫りながら、羽生善治という壁に阻まれてきた。
二人の師弟関係を間近で見てきた深浦康市九段は言う。
「森下さんは自分が培ってきたことをすべて増田君に伝えれば、羽生さんを超えられる存在になると思われたのかもしれません。ただ増田君は厳しく縛られるより、自分の考えでやっていく方向を選んだのだと思います」
森下の息子・大地から聞いた話を、最後に私は増田に伝えた。
「父が送られてきた手紙を見ながら、『すごい才能がある子だ。こんな子がいるのか』と興奮していたのを覚えています。自分より1歳上の増田さんに父が将棋の才能を認めているのを聞いても、僕には不思議と嫉妬心が湧かなかった。増田さんは特別な才能の人で、別世界の人のように感じていました」
増田はじっと聞いていた。視線をそらす。眼鏡を外し、そっと目頭を拭った。
写真=野澤亘伸
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森下卓九段と増田康宏六段の物語は、『師弟~棋士たち 魂の伝承~』で全文が読める。また、のちに将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞した同書には、計6組の師弟が登場する。