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 志賀のこの談話では、こうした地域ではこういうことが起きてもおかしくないように思えてしまう。 

岐阜、富山両県の県境が書かれていない国土地理院地図

 ただ、志賀が指摘した国境紛争は歴史的事実だった。住斉「白木峰・金剛堂山・楢峠・万波峠が囲む地の国境論争」(「飛騨学の会」研究紀要「斐太紀」第22号所収)には、戦後の1953年段階で、万波峠など、岐阜、富山両県の県境が書かれていない国土地理院地図が載っている。

 県境が確定したのは、係争地の山林を2つの土地開発業者が購入して訴訟となり、最高裁が岐阜県側の主張に近い形で認めた1967年。坂下村は1956年に宮川村になるが、1981年に刊行された「宮川村誌通史編下」には紛争のことが詳しく書かれている。

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県境が書かれていない1953年の国土地理院地図(「白木峰・金剛堂山・楢峠・万波峠が囲む地の国境論争」より)

 それによれば、江戸時代の17世紀半ば、万波山を入会山として雑穀栽培などを正業としていた飛騨12カ村が「越中桐谷村(現富山市)の村民が入り込んでいる」と幕府へ出訴。越中側も「万波山は古来加賀領で、現在は分封された富山藩領」と反論。実質的には飛騨・金森藩と富山藩の争いとして国境紛争が始まった。

 幕府は双方の言い分を聴取。旗本に現地を調査させた結果、1674年、飛騨側勝訴の裁定を下した。この地区に加賀藩の“隠し金山”があったことが紛争の背景にあり、それを秘密にしていたことが裁定に影響したといわれる。紛争の過程では獄死や病死の犠牲者も出た。

「(富山)藩にとっても、その下にいる百姓たちにとっても恨みて余りある裁定であった。そのため、飛騨に対する怨恨はこれ以後長く残った」(「白木峰・金剛堂山・楢峠・万波峠が囲む地の国境論争」)

国境紛争の周辺地図(「白木峰・金剛堂山・楢峠・万波峠が囲む地の国境論争」より)

「全村餓死か」「唯一人の生存者の報告」

 同じ2月14日付の在京紙では、東日が「積雪にて全員餓死か 飛騨國(国)境の一村落」、報知が「一村の民悉く惨死 越中に近き飛騨の山奥 唯一人の生存者の報告」の見出しで、いずれも富山発で報じた。

 報知は東朝と同様、生存者1人が富山側に出て通報したとした。それにしても、東朝の記事にある、唯一の生存者の所在が不明とは奇妙ではないだろうか。

 同じ日付でも大阪毎日(大毎)はだいぶ違う。「積雪にて部落全滅? 村民悉く死したりとの風説」の見出し。内容は系列紙の東日と全く同じだが、「風説あり」と慎重な扱いで踏みとどまっている。東日との違いは何だったのか。