一村全滅は虚傳(伝) 万波山の現状
婦負郡大長谷村の奥、岐阜県吉城郡万波村が大頽雪か食糧欠乏のため全滅せりとのうわさありたるは既報のごとくなるが、本県警察部が八尾署に命じて調査せしめたるところによれば、全然虚報にして、積雪目下1丈5尺(約4.5メートル)あるも、郵便物のごとき隔日に通いおれりという。
記事はこの後、東朝と全く同じく、志賀重昂の談話を引用。「不便な谷間であるから、このような悲惨事が起こったと想像されても、まんざらうそと思われない土地であるのだ」と締めくくり、虚報を少し弁護している。
虚報の背景にあったもの
こうして「豪雪で300人餓死、全滅」は虚報と分かったが、それには背景があったといえそうだ。江戸幕府の裁定が下った後も、万波などの国境は未確定で、飛騨、越中両国から人の出入りが続いたまま、近代を迎えた。
1914年12月、富山県議会は、飛騨地方のうち大野、吉城2郡を富山県に合併させることを求める意見書を採択。大隈重信・内務大臣(首相兼務)に提出した。
飛騨の分水嶺から 北に流れる河川は全て富山湾に注ぐ。そのうち、係争地近くを流れる宮川を源流の1つとする神通川や庄川はたびたび氾濫。下流住民に被害をもたらしてきた。治水を徹底するためにも行政を統一する必要がある、というのが理由だった。しかし、北陸タイムスの報道を見ると、議会では反対論もあり、論議は混乱したようだ。
これに対して岐阜県議会は直後に「飛騨は一体であり、越中よりも美濃との結び付きが強い」と して反対する意見書を採択。大隈内相に出した。結末について「富山県史通史編6(近代下)」(1984年)は「行政区画の変更は容易なものでなく、沙汰やみになったと考えられる」と書いている。
“豪雪餓死事件”が起きたのはその4年後、富山県民、特に飛騨と接する地域の住民にとって“飛騨帰属問題”への関心は高かったに違いない。大毎が「時節柄」と書いたのもその意味では?
富山県内でも豪雪の被害が続出していた。大長谷村の雪害も話題になっていただろう。そこへ、問題の地である万波集落が豪雪に見舞われ、住民が困窮しているという情報が入った。そこから大頽雪―孤立―食糧難―飢餓という想像が広がっていったことは想像に難くない。
出入りできるのは事実上富山側しかなく、人流も岐阜側より多いのに、行政区画としては他県であり、手が出せない。そんないらだちや不満が、酒のつまみとして話を想像のままに膨らませ、虚報の発生に結び付いたと考えるのは飛躍ではないだろう。