この冬も厳しい寒さに見舞われ各地で豪雪が記録されているが、いまから1世紀以上前、1918(大正7)年はそれをはるかに上回る大豪雪の冬だった。積雪が最大20丈(約60メートル)という新聞報道も。新潟県の集落と山形県の鉱山では、いずれも犠牲者が150人を上回る、日本で1、2番目の規模の雪崩事故が発生した。

新潟・三俣の雪崩第1報(東京朝日)

 そんな中、富山県との県境に近い岐阜県の山奥の集落が豪雪で孤立。住民約300人が餓死して全滅したというニュースが新聞数紙の紙面をにぎわせた。現地は、大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」の舞台のモデルになったとされる場所にも近い。ところが、それほどの大事件なのに続報はなし。各紙を点検すると、誤報ならぬ全くの虚報だったことが分かった。なぜ、そんなことが起きたのか。

 2件の雪崩事故にもそれぞれ、その時代ならではの“背景”があった。この年、日本政府はロシア革命に伴う軍事行動としてシベリア出兵を決定。富山県を端緒に米騒動が各地で広がった。国内でもスペイン風邪が流行。死者は約7万人に上った。時代のうごめきを予感させる年に起きた豪雪のてんまつは――。文中、現在は差別語・不快用語とされる言葉が登場。新聞記事などは見出しのみ原文のまま、本文は現代仮名遣いに統一する。

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「全線運転不能となり、吹雪猛烈にして当分開通の見通し立たずという」

 吹雪列車 至る所で立往生

 旧臘(前年12月)来、吹雪のため運転休止となりいたる信越線は昨今いよいよ猛烈を極め、5日夜8時、上野発新潟行き列車は6日午前9時ごろ、塚山―来迎寺間にて運転不能となり、直江津、長岡方面より救援におもむきつつあるも、吹雪激しくしていつ開通するか計り難し。同列車は全部140名の乗客あり。来迎寺より1日2回の炊き出しを運び、7日朝、来迎寺より駅夫来たりて排雪に努めたる結果、右乗客は半道ぐらいの徒歩にてようやく来迎寺に引き揚ぐるを得たるも、列車と排雪車はそのまま立ち往生をなしおれり。なお5日から6日にわたり直江津―新津間全線運転不能となり、吹雪猛烈にして当分開通の見通し立たずという。

 1918年1月8日付の夕刊紙・都新聞(現東京新聞)は社会面トップでこう報じた(当時の新聞記事はまだ文語体だった)。前日1月7日付の大阪毎日も「列車が雪に埋没 北陸、信越線不通に」と報道。同日付の都には「雪中に進退谷(極)まりたる北陸線の列車」という説明付きの写真が載っている。

 中央気象台(現気象庁)発行「気象要覧」第218号の大正7年1月全国気象概況は「総概」で「高気圧はおおむね大陸方面に占拠し、低気圧は日本海方面を通過するもの多く、本州日本海方面、北海道、樺太(現サハリン)などにては連日降雪を見、積雪深く暴風雪、崩雪(雪崩)などのために多大の惨害をかもせり」と記述。