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 犠牲者についての描写も詳しい。

 死体収容所に赴く。そこら一帯に、積雪まさに2丈5尺(約7.5メートル)、製錬所その他の建物も全く雪に埋もれて、ただ屋根の一部、煙突などの現れあるのみ。ここにて1死体をワラ俵に入れ、首はアンペラ(ござ)にて包みて背負い行くに遭う。前に坂道においても、死体をむしろ包みとしてソリにて下るもの2個に会し、酸鼻のさまはいまにして刻々と新たなるを覚ゆるのみである。

 死体収容所は雪に埋もれある4間(約7メートル)に9間(約16メートル)の粗雑なる木材倉庫を充用したるもの。「屍体収容所」と書せる立札ありて、入り口の辺り、濡れ夜具が積み重ねある。そばに既にひつぎに納められたる死体が数個並べあって、遺族にふたをはねて検分さしている。係員や稼ぎ人が死体洗浄の湯を沸かしながら暖をとっている。奥に間に合わせの形ばかりの香花を供える壇が設けられて数多のろうそくがゆらゆらとともされてある。その後方には白布に包まれたひつぎが幾十となく累積されて凄惨の影四辺に漂うておる。

 そのひつぎの後方に当たって薄暗き所に発掘せるばかりの赤裸の死体が男女老幼の区別さえなく、首にはいちいち姓名を記した木札をつるして累々と積み重ねられている。中には顔面に負傷して血痕斑々(はんぱん=まだら)たるものや、胸部や背部に打撲傷を負うて皮下出血のしてるもの、赤紫色の斑痕の存するものなど、漁猟場に生魚の積み重ねたるごとく、その惨状、凝視するに忍びぬ。

 係員はいちいち布団をはね、ろうそくの明かりに照らし見する。中に最も憐憫の情を動かさしめたるは、仁科君=倒壊して全滅した分教場の訓導(教員)の子ども=の死体より数人前方にありて、2歳か明けて今年3歳ぐらいの嬰児が母に抱かれたるまま、己が口をば母の乳房に吸いつくがようにして小さき手をば、母が抱ける手に絡ませてあるなど、他には見られぬ凄惨の状綿々として、哀愁の情は迫り、新しく涙の下るをとどめ得ない。(「第五報」) 

日本の雪崩事故史上2番目の惨事

 事故の犠牲者は最終的に154人に上り、新潟・三俣村に次ぐ、日本の雪崩事故史上2番目の惨事に。特に子どもが65人を占めたのが目立った。

「朝日村史下巻」によれば、大鳥鉱山は江戸時代の金鉱発見に始まり、明治時代に古河家個人所有から古河鉱業の経営へ。銅の鉱床発見で「次第に生産量を伸ばし、大正6(1917)年には年産約380万トンに達するなど、大正には全盛期を迎えたのである。これは日露戦争や第一次世界大戦による世界的銅価格の高騰をはじめ、大鳥鉱山自体の設備改善や機械化、さらに労働力の多量の投入などによるものである」(同書)。

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 最盛期、鉱山関係の人口は約1500人ともいわれ、最もにぎやかな場所が機械場だった。それが雪崩に襲われた。犠牲者の多さに仮火葬場で荼毘に付すのに4日間かかったという。

 古河鉱業は1月30日から連日荘内新報に「慰問御礼の謹告」を載せたが、その後、世界不況のあおりで銅の価格が下落。同社が1976年に刊行した「創業100年史」によれば、雪崩事故から4年後の1922年に閉山した。同書に事故の記述はない。