「この雪崩の原因に2説あって、いまだに結論には到達せぬらしい」
結局、この雪崩事故は後日の死者も含めて158人が死亡する国内史上最大の雪崩事故となった。「湯沢町史通史編下巻」によると、飯場1棟が倒壊。大倉組と下請け労働者46人も犠牲になった。
この雪崩事故の原因をめぐって、地元ではとんでもない説が出た。山岳遭難に関する多くの著述がある春日俊吉の「山岳遭難記第3」(1959年)は「発生原因の学的研究はついになされなかったと聞くが、推定ではやはり例の“表層陥没雪崩”の一種に相違ない」と推定。十日町森林測候所の観測記録として、1月1日に145センチだった積雪量が4日に152センチ、7日には233センチ、そして雪崩発生当日の1月9日には297センチに達していたことを挙げた。
「こうして積もりに積もった雪が9日の午後11時30分、ついに自らの重さを支えきれなくなって堪忍袋の緒を切ったものとわれわれ素人は想像するのだが、当時は村にもこの雪崩の原因に2説(もちろん学的なものにあらず)あって、いまだに結論には到達せぬらしい」
「原因2説のうち1つは“崩落説”であって、もう1つが“震動説”である」
“崩落説”は、当夜は強風が吹いていて、固い地雪に大量の粉雪である新雪が積もって浮いていたところに、強い風が吹きつけて山頂に近い斜面で崩落が始まり、全山に波及した、とする。事故直後に現場を視察した新潟県の調査官も明確にこの説を主張。一般に承認されることとなった。「だがしばらくして、風ではなくて“ハッパ”の震動によるものではないか、という新説が現れて、これがまた相当に有力であった」と同書は次のように述べる。
「交代時間の知らせに毎夜ダイナマイトをぶっぱなす。かなり大きな音響が出る。空気の震動がなかなか強い」
当時、宿場から山頂「前の平」までのちょうど中央地点で日本水力電気KKが発電用のトンネル工事を進めていた。昼夜兼行の突貫作業で、ちょうどこの11時30分が工員の交代時に当たっていた。交代時間の知らせに毎夜ダイナマイトをぶっぱなす。かなり大きな音響が出る。空気の震動がなかなか強い。工事現場から約550メートル離れた三俣宿の人家の戸障子もビリビリする。山頂付近には所々に相当の雪庇が発達していたし、爆薬の震動で空気が圧搾されてそれで陥没大雪崩が起きた、という見方である。
十日町森林試験地に勤務していて春日とも知人だった高橋喜平「日本の雪崩 雪崩学へのみち」(1980年)も2つの説を紹介している。さらに詳しいのは「湯沢町史通史編下巻」。「新潟県警察史」が事実関係を記すだけで原因に全く触れなかったのと対照的に、同書のこの事故の記述は自治体の史書とは思えないほど踏み込んでいる。