文春オンライン

連載大正事件史

「雪崩の惨死者発掘 死屍累々 生存わずかに…」史上ワースト級の雪崩事故が続発した“1918年の大豪雪”

「雪崩の惨死者発掘 死屍累々 生存わずかに…」史上ワースト級の雪崩事故が続発した“1918年の大豪雪”

300人死亡の大虚報「豪雪餓死」事件#1

2022/01/16
note

「朝日村史下巻」(1985年)には鉱山の説明がある。「機械場(「機械工場」)というのは通称で、大鳥の部落から約8キロ上流にあった鉱山まちで、機械場川(鰍沢)を挟んで東山と西山に分かれて建物が並び、東山には製錬所、事務所、鉄索場、郵便局、診療所、販売所などがあり、西山には役員住宅、坑夫長屋、人夫長屋、合宿所、学校(分教場)などが軒をつらねていた」。山形新聞の記事は「附近の模様」についても触れている。

大鳥鉱山機械場全景(「朝日村史下巻」より)

死体収容所に赴くと…

 遭難地付近の概略につき(県)警察部・及川技手の語るところによれば、機械場は大鳥鉱山地の入り口にして、上田沢(巡査駐在所のある所にて、ここまで人車を通ず)より約5里(約20キロ)を隔たりたる山中にあり、途中の道路は山腹に沿うてわずかに通ずるも、しかも昨今の積雪は1丈5尺もあるべく、道路というもの、おそらくなかろうと思う。この間の険を冒して急遽上田沢に出で、警察電話をもって当所に報告してきたのだが、以上のごとく距離があるうえに途中危険多く、その後の消息を知るに由なきも、私は昨年11月に用務出張したときの記憶によりこの報告を総合すると、機械場の西方から大雪崩が襲来したといえば、役宅、倉庫、事務室、製錬場なども同時に倒壊したのではあるまいか。ことに午前4時ごろとあるから、まだ寝ている時刻で、一家族ことごとく枕を並べて惨死したことと想像する、うんぬん。

ADVERTISEMENT

 同じく地元紙の荘内新報は鶴岡から記者を現地に派遣。「大鳥災害視察記」を連日のように掲載した。1月26日付の「第三報」では、死亡者の姓名を載せ、27日付の「第四報」以降は、記者が到着した雪崩現場の模様を記している。

荘内新報の地図入り現地取材記事

 眼下、幾百尺の下、機械場一帯の地区はただ一面雪に覆われ、所々に煙突、高屋根、つり橋などの見ゆるのみ。されど、大雪塊墜落の個所はいまにしてなお、当時を物語りつつあるようである。

 そこよりの急坂、真に削るがごとき所を歩々身命を賭して下れば、600尺(約180メートル)下 、すなわち惨害の小学校つぶれ跡に達した(24日正午、災害地にて)=27日付「第四報」。

 積雪23丈(約69メートル)の底、小学校のつぶれ跡は木っ端みじんとなりて、当時の惨害を物語っている。生徒が机の2、3脚が持ち出されあるも哀れである。(29日付「第五報」)