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 救助のため六日町を出発したる警官隊は積雪のため、6(時間)の道程を10時間を要して到着し、小千谷、小出の両所よりも消防組、青年団、軍人会などは結束して現場におもむき、同地にある日本水力電気会社の工夫400名と協力し、10日夜より11日午前3時までに被害者57名を発見せるが、うち34名は死亡し、同村駐在の梅澤巡査はかろうじて死を免れしが、妻女は圧死せり。同村小学校は倒壊せるも、被害者なし。3名の医師は必死となりて救護に従事し、赤十字社支部は看護婦を派遣し、県は係官を急行せしめたり。郵便局は幸いに無事なりしが、事務員の家族は全滅せり。雪崩は140間(約250メートル)の高さより幅300間(約540メートル)、厚さ30尺(約9メートル)のものにて埋没面積4000坪(約1万3000平方メートル)に達し、被害者及び救護人は糧食なく、困難言語に絶す。

「雪崩の惨死者発掘 死屍累々 生存わずかに…」

 当時、現場付近では水力発電所の工事が進んでいた。「湯沢町史通史編下巻」(2005年)によれば、三俣村は1917年末現在、101戸、人口609人で、南魚沼郡で2番目に小さい村。コメの作付け面積も郡内最小で、主要産業は林業だった。

 そこに発電計画が持ち上がった。日露戦争後、電力需要が急増。発電立地先として豪雪地が注目された。さらに1914年に第一次世界大戦が勃発。ドイツからの化学製品などの輸入が途絶した。

 小国村(現長岡市)出身の起業家親子が電気化学工業用電力供給を目的に1万キロワットの発電を計画。清津川水力電気会社(のち日本水力株式電気会社と改称)を設立。三俣村内の清津川から取水し、トンネルで湯沢村(現湯沢市)の薬師山山頂に上げる。1916年10月に起工。水路工事を請け負ったのが大倉組(現大成建設)だった。

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「工事には地元はもとより多数の“よそ者”が雇用され、飯場のほか、民家に下宿した結果、8畳1間が月4円(現在の約8000円)前後に、坪15~16銭(約305~320円)の土地が一挙に10倍もの値がついた。小料理店や飲食店も登場し……」。ちょっとした“発電バブル”だった。

地元紙・新潟日報の続報記事

 1月14日付国民は「雪崩の惨死者発掘 死屍累々(ししるいるい) 生存僅(わずか)に廿四人」の見出しの「長岡発」記事でこう記している。

「三俣村大雪崩の大惨事は12日午後、ようやく遭難者の発掘を終わりたるが、遭難者は176名の多数にて、うち生存者はわずかに24名にすぎず、全遭難者中、村民は110名にて、長岡・日本水力電気会社の清津川発電所工事に従事中なる工夫は42名なり。中にも悲惨を極めたるは常磐屋の火災にして、同家には折柄、工夫20名宿泊しおり、同家の家族7名とともに惨死せり。火災の原因は、発電所工事に用うる多量のダイナマイトが雪崩のために爆発せしためなり」