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(3)平壌駅・西平壌駅(北朝鮮)

 北朝鮮の鉄道を代表する旅客駅といえば平壌駅。外国人観光客の自由行動が一切許されず、国内移動は原則として旅行会社が用意する専用自動車を利用することになるこの国にあって、中国からの国際列車が発着する平壌駅は、外国人観光客が体験しやすい数少ない公共交通ターミナルである。

現在の平壌駅舎。朝鮮戦争後の1957年に建設された3代目

 もっとも、殿堂のような現在の平壌駅は朝鮮戦争後の1957年に完成した3代目で、大日本帝国時代の面影はどこにもない。ただ、駅の北西に隣接する扇形の機関車格納庫(扇形機関庫)は、建物全体がパステルカラーに彩られてはいるが、明らかに日本統治時代の鉄道施設である。

 駅舎は朝鮮戦争で国連軍による空襲の被害を受けて焼失したが、この扇形機関庫は生き残り、北朝鮮の鉄道員によって大切に使用されてきたのだろう。駅のホームから見ることはできないが、駅前通りにそびえ立つ高層ホテルに宿泊すると、部屋の位置によっては、蒸気機関車全盛期を偲ばせる方向転換用の転車台が、扇形機関庫のかなめ部分で実際に稼働している様子を遠望することができる。

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平壌駅の北西に隣接する日本統治時代の扇形機関庫。蒸気機関車の姿は消えたが、車両の格納庫として今も現役で使用されている【★】

 厳密には駅の施設ではないが、殿堂駅舎の前の歩道上に立つと、漢字で「防空水槽」と刻されたマンホールの蓋が目に飛び込んでくる。中央のマークが日本統治時代の平壌府の紋章であることを知る平壌市民は、どのくらいいるだろうか。

平壌駅前にある「防空水槽」と刻字されたマンホール。中央のマークは日本統治時代の平壌府の紋章【★】

 その平壌駅から中国方面の国際列車に乗ると、最初に西平壌という駅を通過する。国際列車に乗れば誰でも容易に観察できるこの小駅は、北朝鮮の公式記録では1961年の開業となっているが、実は日本統治時代に同名の駅が存在し、しかも平壌駅に匹敵する名物駅舎を構えていた歴史を有している。

通過する列車から見る西平壌駅舎【◆】

 時代が大正から昭和に変わった頃、朝鮮半島の国有鉄道を運営していた朝鮮総督府鉄道局(略称「鮮鉄」)では、朝鮮半島内の由緒ある史蹟地等の玄関駅では朝鮮情緒を表象する駅舎を新築・改築する方針を採り、朝鮮式建物の概観と色調を採り入れた駅舎を各地に建設した。2021年末で営業を終了した韓国南部の慶州駅や仏国寺駅は、そうした朝鮮総督府の施策によって誕生した伝統駅舎の生き残りであった。

 昭和4年(1929)に開業した西平壌駅には、レンガ造りのやや近代化された朝鮮様式の駅舎が建てられた。なぜ、都市の玄関駅である平壌駅ではなく、もっぱら地元客ばかりが利用する西平壌駅に朝鮮様式の駅舎を建てたのかはわからないが、その威容は平壌の観光名所でもあった。

昭和4年(1929)に建てられた朝鮮様式の西平壌駅舎(当時の絵はがきより)。平壌の観光名所でもあった【◆】

 戦後、北朝鮮は平壌駅の北方でルート変更を行い、線路の位置が変わった。旧線上にあった西平壌駅と朝鮮様式の名物駅舎は、鉄のカーテンの向こうでいつのまにか姿を消してしまった。現在の西平壌駅は、旧駅から離れた場所に新設された、外国人観光客には縁のない戦後生まれの地元客専用駅である。

雑踏の西平壌駅前。もっぱら地元客ばかりで賑わうのは日本統治時代と変わらない【◆】

 駅前には戦前と同じく路面電車や市内バスが発着し、市中から集まった人たちで駅前広場は列車の発着時間外でも賑わっている。国の玄関である平壌駅前とは一味違った、平壌市民の雑然とした息遣いと活況ぶりは、歴史の波間に消えた旧駅の伝統を知らず知らずのうちに引き継いでいるのかもしれない。

写真=小牟田哲彦

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上記3ヵ国の6駅に関するさらに詳しい歴史やエピソードなどは、『改訂新版 大日本帝国の海外鉄道』(扶桑社)、または『アジアの停車場:ウラジオストクからイスタンブールへ』(三和書籍)をご覧ください。なお、★印の写真は『改訂新版 大日本帝国の海外鉄道』に、◆印の写真は『アジアの停車場:ウラジオストクからイスタンブールへ』に、それぞれ収録されている写真です。

改訂新版 大日本帝国の海外鉄道

小牟田 哲彦

扶桑社

2021年12月17日 発売

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。