「どうせ、すぐやめる」
1990年末、飯島愛はニューヨークへ行った。たった1週間の滞在だったが、ニューヨークの広さ、自由さ、先端的な遊び場での性的光景に衝撃を受けた。いつかここに「留学したい」「英語で遊びたい」と18歳の飯島愛は強く思った。
そのためにはお金だ。しかし家賃は18万円なのに、90年の1月から4月までだけで540万円も使う暮らしぶりでは「留学」資金はとても貯まらない。「ハゲオヤジ」のプレゼントのブランド品を質屋に持って行き、お金にかえる。それでも全然足りない。「誰もが知っている大企業」の社長がホテルの部屋のテーブルに300万円の札束を置いたときには、さすがに驚いた。要するに売春である。
AV出演の話がきたのは91年夏、領収書にサインしたのは満19歳になる直前だった。3ヵ月働けば1000万円といわれ、承知した。10タイトルか20タイトルのAVに出る。性行為は「疑似」でいいけれど、そのほかは何でもありだ。飯島愛はどうしても1000万円が欲しかった。「留学」費用、引越し資金、クラブの客が踏み倒した売り掛の負担金、借金300万円などをあわせるとそれくらいになる。
撮影現場での飯島愛の評判は最悪だった。遅刻は平気、台本は読んでこない。芝居はしてくれない。「小芝居のとこなんて早送りされる、必要ない、さっさと済まそう」という、ある意味では妥当な彼女の主張を支えたのは、「どうせ、すぐやめる」「いまは稼ごう」という合理的、かつ投げやりな仕事観だった。
彼女をAV女優として売り出す側にも目算があった。胸と目元を整形させ、ムービーは撮りだめて、飯島愛を有名にしてから一気に放出する。
彼らはテレビの深夜番組に売り込んだ。テレビ東京「ギルガメッシュないと」という番組で飯島愛は「Tバックで読むニュース」というコーナーを担当した。最小限の布切れを使った下着、お尻の部分は一本の紐状で、背後から見るとTの字だからTバックである。
そのテレビ出演が決まった頃、最初の3ヵ月のAV出演契約が切れた。AV制作者は「もう3ヵ月やってくれれば、今度は2000万円」と誘い、彼女は「どうせ、すぐやめる」と自分に弁解しつつ承諾した。気がかりなのは、AVにしろ深夜テレビにしろ、実家にばれないかということだった。14歳で家を出て以来、体形は変った。整形もした。それにウチは堅い人ばかり、そんな番組は見ない。だから大丈夫、と彼女は思いたかった。その生番組の放映は92年1月からである。最初の放映時に2時間遅刻した。本番には間に合ったが、リハーサルはできなかった。画面では彼女が尋常にニュースを読んでいると見える。カメラが引くと半裸だとわかる。さらに後ろにまわるとTバックが見える。そんなつくりであった。根の頭がよい飯島愛だから、周囲の不興を買いながらも自分の役目はそつなく果たした。