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「プラトニック・セックス」

 この97年は彼女の転機となった。5年半籍を置いた芸能プロダクションを離れ、「渡辺プロダクション」に自分で電話して所属タレントになりたいと伝えたのである。

 面接したのは副社長の渡辺ミキだった。渡辺晋・美佐夫妻の長女で当時37歳のミキに、飯島愛は過去の生々しい性的遍歴のほか、流出した「裏ビデオ」をネタに脅迫してくる者たちにやむを得ず金を払ったことを告白した。すると渡辺ミキは、「あなた、そういう体験を本に書きなさい、苦しくても書きなさい」といった。書いてしまえばもう脅迫されることもないし、あたらしい飯島愛の出発になる。そういって渡辺ミキはためらう飯島愛を説得した。

 記憶と日記をもとに書いた自伝『プラトニック・セックス』は、2000年10月31日、飯島愛28歳の誕生日に発売された。この本はよく売れ、2009年までに170万部に達した。台湾で『式性愛』の題名で翻訳されると、飯島愛の当地での人気は異常なまでに高まった。

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 プロモーションで台湾を訪れた彼女の記者会見には、トム・クルーズのときとおなじ400人の記者が集まった。前年に華人作家として初めてノーベル文学賞を受賞した高行健がちょうど同時期、亡命先のパリから訪台して講演会を開いたが、飯島愛に圧倒されたか聴衆はまばらだった。

「願いが叶うと、すべてが終わる」

『プラトニック・セックス』の印税で彼女は渋谷の高層マンション最上階の部屋を買った。間接照明だけ、3メートル先は何も見えない暗い部屋に彼女はひとりで住み、コンビニ弁当を常食とした。ある時期はバナナしか口にしなかったので、極端に痩せた。1999年11月頃、親密であった妻子ある芸能人と別れたあと、孤独癖がさらにつのったようだった。

 健康問題は10代からかかえていた。腎盂炎と腎臓結石である。そのため定期的に発熱した。テレビのトーク番組の本番中に、早く帰りたいと口にすると、周囲は「愛ちゃんのいつものワガママ」と受け取って笑ったが、実は30代になって急速に悪化した体調のせいだった。

 そんな中、彼女は2003年末から「反エイズ・キャンペーン」に積極的に参加した。自身もたびたびエイズ検査を受け、陰性という結果を得ていた。彼女は性病予防の装具を開発・販売する会社を起業したいと考えていた。

 2007年3月、飯島愛は芸能界引退を表明した。しかし、会社を共同経営するはずの人物に金を持ち逃げされたり、受難はつづいた。2008年には、抗うつ剤の使用を告白した。かなり深刻なうつだったという。

 2008年12月5日、ブログを最後に更新、翌6日、宇都宮でのエイズ予防啓発イベントに参加した。24日、しばらく音信がないのを不可解に思った元付き人がマンションを訪ねた。反応がないので管理人とともに入室すると、飯島愛は椅子から転げ落ちたような格好で床に倒れていた。数日前に亡くなった気配だった。

 12月17日頃の死亡と推定されたが、暖房が機能していたにもかかわらず腐敗臭は希薄だった。しばらく時間をおいて、死因は「肺炎」と発表された。

 『プラトニック・セックス』のエピグラフは「願いが叶うと、すべてが終わる。」 やや不吉な一文であった。「バブルの娘」は、バブル以後の18年を、あまり幸せとはいえないオトナとして生き、36歳で死んだ。

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人間晩年図巻 2008―11年3月11日

関川 夏央

岩波書店

2021年12月27日 発売