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「バブルの娘」の帰宅

 初回からの遅刻は、やはり「どうせ、すぐやめる」と思っていたせいだが、92年晩秋、生放送を「バックレ」た。出演者たちは、テレビ画面から「愛ちゃん、怒らないからおいで」と呼びかけたが、彼女は部屋を出なかった。「捜索」を警戒して、ピザの宅配もドア・チェーンを掛けたまま箱をタテにして受け取った。ピザは崩れた。

 堕胎したのは92年6月だった。91年晩秋から同棲していたその相手は、92年11月、飯島愛が20歳の誕生日を迎えた直後に彼女の貯金通帳を持って去った。「バックレ」た理由は彼女に深い傷を残したこの一件かも知れない。

 93年2月14日、バレンタイン・デーに飯島愛は渋谷をロールスロイスのコンバーティブルで走るというプロモーションを行い、それをCNNが世界に報道した。同年5月、彼女は東大の五月祭に呼ばれた。2500人が「Tバックの女王」を見に集まった。ノーギャラだったが、多数のマスコミの取材に事務所はパブリシティ大成功と自賛した。14歳から20歳までに、普通の女性の30年分くらいの経験を積んだ。

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アテネオリンピックを観戦する飯島愛氏(中央)©文藝春秋

 彼女はもうAVには出ていなかったが、テレビではAV女優上がりをあからさまにし、また整形手術も隠さなかった。芸能人として生きる決意を固めた彼女は、もはや遅刻せず、テレビ番組が自分にもとめているものを敏感に察して、すなわち痛々しいくらいに「空気を読んで」ふるまい、トリックスターの地位を脱した。

 飯島愛が「Tバック」と訣別する直前の94年8月、バブルの象徴であった「ジュリアナ東京」が閉店した。居場所のなかった10代の飯島愛を居候させてくれ、また賃貸マンションの名義人になり、入居費用を貸してくれた自称医者の青年が、貸した金を返せ、返せないなら寝ろ、といってきた。この人はゲイだったはずなのに、と思いながら要求に従った。その、まだ30代前半だった自称医者が自宅で死んでいるのが発見されたと知ったのは95年の秋だった。「あなたテレビに出てる?」という母親からの電話を受けたのも同時期、23歳の誕生日を迎えた頃だった。

 事実を認めた愛は、肩の荷を下ろしたような気持だった。97年、24歳になった彼女は何度か家に帰った。そうして両親と喧嘩腰ではなく話すことができた。10年におよぶ長い旅は終ったのである。