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「個人のプライバシー上許されるのか否か」を置き去りに

 さて、これらは憲法で認められた子どもの学ぶ機会、学習権の行使にあたり内面の思想信条や価値観、気分などを理由に子どもの学ぶ機会を選別してはならないという、デリケートな部分に触れます。

 仮にここで、子どもの気持ちを集約した大阪市の教育データ活用で、中学校や高校に進学する際の成績表や生活態度評点などの記載に「気持ちが沈みがち」というフラグが立つことが望ましいのかどうか。あるいは、子どもの気分が落ち込んでいるときに、それを学校が状態監視をして「データ上、この子は担任など教員からのケアが必要」と表記するだけでなく、その落ち込んだ気分の理由を学校や自治体が尋ねたり、家庭に問題がありそうだと介入するのが適切かどうか。

 そして、子どものこれらの内面の問題と、今後進めるコンピュータ上でのオンラインテスト(MEXCBT;CBT=Computer Based Testing)とを並べて多変量解析をすることが、果たして個人のプライバシーを考えるうえで許されるんだっけ、という問いは全部残されたまま、今回の教育データ利活用の議論は進んでいるわけですね。

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 そして、二言目には「(日本の国内法である)個人情報保護法上は適法である」とか「個人情報保護委員会と討議の上進めている」などのただし書きがつくわけですが、情報法の観点から言えば、日本の個人情報保護法自体が教育データなど個人に関する情報の取り扱いについて世界標準からすればフォローしきれていない面が多くあります。つまり、令和6年度あたりの次の個情法改正で修正されるであろうスコープに、いまの公益無罪な子ども見守り事業は思い切り入ってしまっているわけです。

 実際に、筆者が関わっている教育ベンダーや私立小中学校でも似たような取り組みを過去にやったことがあるのですが、私立なので経済問題が家庭に少ないという前提はありながらも、子どもの精神的な失調を起こす理由は、おおむね「親や兄弟の病気」「親の離婚」「中学・高校受験」に集約されます。そして、子どもが精神的に失調すると、遅行指数的に成績も低迷するのですが、それを教育の現場や自治体が把握したとして、「子どもの具合が悪そうだからと言って、家庭の離婚問題に行政が口出しすんのか?」という永遠の課題を突き付けられることになります。

©️iStock.com

「子どもを教育データで選別しない」と言った牧島かれんさん

 これらの問題は、子どもを教育データで選別するなということではなく、子どもを選別する際には必要なデータだけを見て、公平に扱えという話に帰着します。 そもそも、なぜかデジタル大臣になった牧島かれんさんが記者会見で「子どもを教育データで選別しない」とか言っちゃいましたが、はっきり言って、これ嘘ですよ。学校教育というのは、本来子どもを選別するための場所です。子どもを選別するために、テストをやり、成績順に行きたい高校や大学に入学できる仕組みなのであって、ただ、その選別が公平で、社会的に納得できるものなのか、という点が強く問われるべきものです。

 そこへ、例えば「この子の家庭は給食費の未納があって、経済的に問題を抱えているから」というデータが紐づけられて、高校進学の内申書において同じ点数のボーダーラインに複数の子供が並んだときに、ちゃんとこれらのデータは参照の対象外にすることができるのか、という話になります。