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子どもの責任に本来は帰さないはずのデータでも…

 実際に公立高校の校長や教頭など教育関係者からヒヤリングした限りでは、合格点のボーダーラインに十数人の子どもが同じ評点で並び、そこから短期間で数人を選び出さなければならない作業をされるときは、子どもの一生や家庭の幸せがかかる重責に「冷や汗が出る」とおっしゃいます。合格させるにも落とすにも、何らかの理由がどうしても必要というときに、これらの子どもの責任に本来は帰さないはずの「給食費の未払い」でも自治体のデータから教育委員会を通じて参照できたならば、何らかの判断の材料になる可能性は否定できません。

 そして、ボーダーラインにいて合格した子も落ちた子も、自分がなぜ合格できたのか、なぜ受からなかったのかを教えられることはありません。この時点で、個人に関する情報を扱う際に「なぜ自分は不合格だったのか、個人に関する情報を開示せよ」と申し立てるのは過去の慣習ではあり得ないことでも、子どもたちの個人に関する情報を行政が一括管理するようになるならば、理由の明示を求められないとも限らなくなってきます。

 つまり、教育データの取り扱いにおいては、子どもの学習権を社会が実現するにあたり、国や自治体は子どもの選別を公平に行うために、不必要で不適切なデータを参照しないことが大前提となります。日本国内の個人情報保護法では適法でも、OECDガイドライン違反であったり、GDPR原則にいきなり抵触しているのはさすがに問題ではないかと思います。いまは、個人情報保護法上は適法でも、近い将来、海外のプライバシーに関する法律が日本でも同じように整備されるようになれば、違法と判断されるような法改正になることはあり得ます。

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教育の現場ではなし崩しに採用されている

 逆に、児童福祉・子ども見守り事業においては、これらの生活の保護や遅刻・欠席が急に増えた子どもに対するケアを重視しなければなりません。ただ、子どもの精神状態や類推される経済状態が見えたとして、それを成績データとリンクさせたり、子どもの家庭に介入させるべきかというのは、非常にデリケートな取り組みのはずです。

 そして、実際にはすでに教育の現場には、複数の大手企業の教育アプリやサービスが学校ICT化の流れとともになし崩しに採用されてしまっており、言い方として適切ではないかもしれませんが、デジタル庁が何を言おうが、文部科学省がどういう取り組みをしていようが、すでに公教育での教育データの枢要な部分は大手教育ベンダーやGoogle、Appleなどのプラットフォーム事業者にぶっこ抜かれています。それも、利用規約に合意したとみなされて、適法に子どもの個人に関する情報が抜かれていることになりますが、さて、この利用規約は誰が合意したものでしょうか。子ども本人でしょうか。それとも学校、教育委員会でしょうか。

 いずれにせよ、いま、教育データ利活用の有識者会議で話されている議論の内容は明らかに数周遅れであって、もちろん遅れていても必要な議論も多いわけですが、いまになって有識者がそれを言うのはさすがにどうなのかと思うわけですよ。