バレー界から“抹殺”された全日本監督
山田はまず、日立からプロ化を試みようと会社に交渉するものの、「観客動員や放映権料の確保など、青写真が何もない」と却下された。94年夏、山田は主力選手9人を動かし、日立に辞表を提出させた。だが、廃部も辞さない日立の強硬な態度に計画はあえなく頓挫。9人は辞表を撤回したものの、山田は日立から顧問契約を破棄される。
日立だけではなく、他の企業もプロ化にはこぞって反対の姿勢を示したため、プロ化を推進した協会は振り上げたこぶしの降ろしどころとして、リーグ戦の名称を「日本リーグ」から「Vリーグ」に改名するにとどまった。その発足パーティの翌日、山田の信奉者と名指しされた大林素子と吉原知子が、日立から突然解雇される。見せしめとも取れる処分に2人は激しく動揺したものの、いち早くプロ化に成功していたイタリア・セリエAに新天地を求めた。
しかし騒動はこれだけで終わらなかった。前後して、週刊誌上で山田の選手へのセクハラ行為が報道され、協会常任理事を辞任。山田と近しかった協会幹部陣も「山田色の排除」の名目で要職から外された。さらには株取引に絡み「外為法違反」で書類送検。山田は完全にバレー界から抹殺されてしまったのである。しばらくして、協会の会長だった松平康隆も辞職する。
2人の指導者を失ったバレー界は、全日本の強化どころではなくなった。責任の所在も不明瞭になり、全日本の監督も毎年のように代わった。世界が着々と力をつける中、日の丸の重みは年を追うごとに薄れていったのである。