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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2022/03/05

株の売買に時間を割くようになったと噂された

 帰国した中田は、山田から初めて「ご苦労さま」と声をかけられた。

「その言葉が嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。『バンザーイ』って飛び上がりましたから。私は金メダルが欲しくて競技生活を続けてきましたけど、心のどこかに、山田監督に絶対負けたくないという気持ちがあったと思う。だから初めて『ご苦労さま』といわれたときは、勝った負けたではないですけど、監督とも勝負出来たと思ったんです」

 山田の下で競技生活を送った多くの選手は「金メダルを獲ることより、山田監督に勝ちたかった」という。それが金メダルにつながる道と信じた。それほど高い山として山田は選手たちの前に立ちはだかっていた。

日本女子バレーを長きにわたって牽引した山田重雄氏 ©文藝春秋

 だがその山田も、その頃から監督室に閉じこもり、あまり練習の場に立ち会わなくなった。株の売買に時間を割くようになったと噂された。これは推測だけど、と断りつつ中田が言う。

「資産家とはいえ、少女バレー教室を開いたり、チームを運営するのに多大な資金が必要だったんだと思います。私たち選手には『一流選手になるには一流のものに接しなければダメだ』と、海外の美術館に連れて行ってもらったり、オペラを見せられたり、有名企業の社長と会食の場を設けてもらったりと、ずいぶん贅沢させてもらいました。そのツケを1人で背負い込んだのかも知れません」

 山田を決定的に追い込んだのが、94年に端を発したプロ化騒動だった。93年、男子サッカーがJリーグを創設し日本中にフィーバーが起きると、日本バレーボール協会も負けじとばかりにプロ化に向けた「21世紀委員会」を設置。山田が委員長に就任した。

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