おニャン子クラブのメンバーとして一世を風靡した新田恵利さん。一度は芸能界を引退し、ライターとして活動した後、芸能界に復帰しました。28歳で元フジテレビ社員と結婚。夫婦と母の二世帯住宅を建て、湘南で穏やかに暮らしていましたが、突然始まった母の介護で生活は一変。どのように現実と向き合い、6年半の介護を続けてきたのでしょうか。また、母の最期の希望を叶えるために、エンディングドレスを選んだ経緯とは――。(全3回の3回目。1回目2回目を読む)

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ベッドに座るとゴロンと転がって

――約6年半、お母様の介護をされていたと伺っていますが、お母様はどんな方だったのでしょうか?

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新田 ポジティブで元気、明るくて冗談が好きなタイプでしたね。人当たりも良くて、誰とでも仲良くなるのが得意でした。

新田さんの母は「ポジティブで元気」なタイプだったという

――新田さんと一緒に出掛けることも多かったそうですね。

新田 よく覚えているのは、私が22歳で一度芸能界を辞めたとき。色々悩んで、人生を変えたくなって、ピアスも開けてみようと思ったんです。ただ、当時は「親からもらった体に穴を開けるなんて」と、ネガティブに捉える人もいた時代。一応母に相談して、てっきり反対されるかと思ったら「私も一緒に開けるわ」って言うんです。

 それで、いざ二人で耳鼻科に行ったらちょっとビビったみたいで(笑)。「恵利ちゃん先に開けて」って。それで私が先に開けて、次に母が開けて。すると、「恵利ちゃんには、先生が穴を開ける位置を確認したのに、私には確認しないで開けた」って言うんです。「ママの年齢で、たくさん穴を開ける人もいないから、聞かなかったんじゃない?」って言いましたが、「なんで私には…」ってなんか拗ねちゃって。そういう母でした(笑)。

1975年、七五三のお祝いで

自宅での介護の始まり

――そんな穏やかなエピソードがありつつ、どのようにしてお母様の介護が始まったのでしょうか?

新田 もともと、何度か圧迫骨折をしたことはあったんです。そのときは入院や自宅療養で様子をみて。痛みが引いたら普通に歩いて生活していました。でも骨折するごとに徐々に弱ってはいきますよね。2014年9月に骨折したときは、相当痛みが強かったらしく、「入院したい」と。今までになく母の強い訴えがありました。

 母はそれまで普通に生活していたんです。それなのに立てない。歩けない。ベッドの縁に座ろうとしても体勢が保てずに、後ろにゴロンと転がってしまって。