おニャン子クラブはバイト感覚だったと語る新田恵利さん(54)。『夕やけニャンニャン』や『セーラー服を脱がさないで』のヒットなど、おニャン子は一世を風靡しました。しかし、華やかなときは瞬く間に流れ、高校、そしておニャン子クラブを卒業すると、今までとは大きく流れが変わっていき――。(全3回の2回目。1回目、2回目を読む)
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何度も何度も書き直して
――高校を卒業して、約半年後にはおニャン子クラブも卒業されました。芸能界で、こんなふうにやっていきたいなど、方向性のようなものはあったのでしょうか?
新田 それが見つからなかったんですよね。そういったことを相談できる大人もいなかったですし。おニャン子も卒業して、番組(『夕やけニャンニャン』)も無くなって、帰るお家がなくなっちゃったような。そんな心細さだけが先に立ちました。
当時は、「女優は脱ぐ覚悟がないと厳しい」と事務所に言われ、歌は自分の歌を聞いてもこりゃ無理だなって(笑)。バラドルとして、山瀬まみちゃんとか井森美幸さんが活躍していましたが、私はそこまで面白い人間じゃないし。しばらくずっと悩んでいましたね。それで、22歳のときに一度芸能界を辞めたんです。
――休息をとられたんでしょうか。
新田 芸能界を辞めて、22歳から25歳の3年間は、作詞やライターの仕事をしていました。元々本を読んだり、何か書くことは好きでしたし。
「TVガイド」で小説を書いたり、「東洋経済」では、主婦の起業家にインタビューをしましたね。それこそ30年前はまだまだ男社会の時代で、そういった方が珍しかったんですよ。今は「東洋経済」の専務取締役になられた、田北浩章氏と一緒に取材に行かせて頂きました。
取材相手は基本的に忙しい方たち
――アイドルとしてインタビューされる側から、インタビューする側に回ってみていかがでしたか?
新田 インタビューされている方が、何千倍も楽だなって思いました(笑)。インタビューする人って、相手の話を聞きながら、次の展開も考えなきゃいけないじゃないですか。これが結構頭を使う。それに、「東洋経済」では企業のお話がメインでしたが、その方にとっては当たり前の言葉でも、私にとっては初めて聞く業界の言葉がポンポン出てくるんです。私も若かったので、「すみません。今の言葉の意味が分かりません。教えてください」ってその都度聞いて。