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 学校にいる間は両親が揉める声を聞かずにすむので少し安心できたが、次の喧嘩は今夜かもしれないと思うと怯えた。父が帰宅すると、自分の部屋のドア近くに膝を抱えて座り、いつ夫婦喧嘩が始まるのかと耳をすました。夜はベッドに入るのが怖くて、ドアに耳をつけたまま眠ることもあった。

「だれにもバレないようにしたかった」

 DVが始まった頃の担任は、年配のベテラン教諭だった。キレやすい性格で、おしゃべりをする生徒の机にチョークを投げたり、黒板消しをぶつけたり、机の横にぶら下げているランドセルを蹴ったり、胸ぐらをつかんで立たせては顔を近づけて怒鳴ったりもした。

 算数の時間、担任が大きな定規を教卓から落とした。ガッシャーン! と大きな音が聞こえたとたん、全身が震えた。父が手に取った物を次から次へと母に投げつけて、ガシャンガシャンと大きな音が家中に響いていた恐怖がよみがえったのだ。深雪さんは両手で耳をふさいで、授業が終わるのを待った。

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 担任がイライラしていると感じたとき、家庭に嫌な空気が流れたときには、恐怖のスイッチが入り、怯え、体調が悪くなる。よくお腹が痛くなった。胃なのか、腸なのか、あるいはまったく違う臓器の放散痛か、どこが痛いのかがわからない。胃薬を飲んでも効果がなかった。吐き気とめまいに襲われることもある。

 絶対に声を荒らげないやさしい音楽の先生の授業では、体調も気分もよかった。今夜は喧嘩があるかもしれないと思うと、お腹が痛くなり、トイレで吐いてから下校した。帰宅後に高熱が出ることもあった。

 学校で体調が悪いときには、保健室で休んだ。あるとき、ベッドで横になっていると、カーテンの向こうで突然、ガシャン! と音がした。深雪さんがパニックになって、「わああっ!」と泣き叫ぶと、養護教諭が驚いてカーテンを開けた。床には、養護教諭が手を滑らせて落としたマグカップが割れて砕け、コーヒーが飛び散っていた。

「どうしてそんなに怖がるの?」

 養護教諭はとてもやさしく信頼できる人物で、いつも深雪さんのことを心配してくれていた。しかし、深雪さんは口を閉ざした。家の事情を打ち明ければ、担任や親に連絡をする可能性がある。父からの報復が怖かった。

「父は自分のプライドを守るためなら何でもする人です。人に馬鹿にされたくないという気持ちが人一倍強くて、見栄の塊です。もし、父が母に暴力を振るっていることが明るみに出たら、私は何をされるかわからないと思いました」

 そもそも人に信じてもらえるはずがないと思っていた。

「虐待やDVは貧乏な家で起こるイメージがあるじゃないですか。ゴージャスなカーテンの向こうには妻を殴る男がいるなんて、だれも信じるはずがありません。大豪邸に住み、運転手付きの自家用車で学校に通っていたという大企業社長の息子が、骨の折れるほどの虐待に遭っていたけれども、だれにも信じてもらえなかったという話を後に聞いたことがあります」