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日米安保の意味するもの

 それは軍事的国際関係における原理であって、その原理にまで、道徳理念を含めた心理感情を及ぼして、いずれの国とも軍事関係を一切結ばない、という他の原理論を打ち出そうというのならともかく、すでに国民の大半が納得選択した、日米安保という特定の条約をそういう論で非難し傷つけようとするのは、方法論的に誤りでしかない。

 しかしそれを半ば可能にせしめ、自らの選択に何か後暗い秘密や誤りがあるかのような錯覚を抱かしめるような、無用なアプリオリを与党政府当事者までが持ってしまっているところに、滑稽な見えざる混乱の原因がある。

 事前協議のイエスを含めた日米安保の意味するものは、日本をカバーするアメリカの軍事力への我々の評価であると同時に賭けでもある。その賭けは99・9%外れる目算はないが、しかし尚、残りの0・1%の可能性とは人命をも含む我が国の、いわば巻き添えとしての損害である。

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 但(ただ)し、その確率を含むこの賭けの方が、それを行なわぬ場合よりもはるかに安全の可能性が高いが故に我々はこれを行ない、国民がそれを支持したのだ、という、この選択の原理を何故当事者が口にすることが出来ないのか。

 断わっておくが、私はここで安保を擁護しているのではない。現行安保に私が見出した偽瞞(ぎまん)と不信については後で記すが、ここでは、所謂安保論争の内に、象徴的に見られる防衛論の偽瞞について指摘したい。

 それは、防衛論にまで持ち込まれた、過剰に感傷的な生命尊重主義と国際関係の力学的本質と全く矛盾した、楽天的な完全主義のもたらした誤りに他ならない。

 それを屈辱卑怯とはとらず、国家や民族のいかなる矜持も人間一人の生命のかけ換えには放置し得るのだという全くな無抵抗主義、それがもたらすものが果して平和かどうかは疑わしいにしても、生命の保障こそが最高の目的である、という考え方を絶対に良しとするならば、いかなる防衛論も成り立たぬし必要ともならない。

 勿論、我々が、純理論だけではなしに、それに加えなくてはならぬ国家国民の心理感情の内には、そうしたものの考え方が在り得るが、しかしそれは決して大前提ではあり得ない。もしそれを唱導しようというのなら、政党政治といった形をとる必要はなく、むしろ一種の宗教運動として行なわれるべきだろうに。