2022年2月1日、89歳でこの世を去った石原慎太郎氏。一橋大学在学中の1956年に作家として鮮烈なデビューを果たし、1968年に政界進出後は政治家としても大きな注目を集める存在となった。

 ここでは、同氏の文筆活動のエッセンスをまとめた『石原慎太郎と日本の青春』(文春ムック)から、1970年に日本の防衛論について綴った「非核の神話は消えた 1970年の先駆的核保有論」の内容を紹介する。(全3回の1回目/2回目を読む)

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空虚な防衛論議

 この2年間、国会に籍を置いて内側から日本の政治を眺め何よりも強く感じることは、多くの問題が、ことの本質に触れることなく論じられ措置されていることだ。

 就中(なかんずく)、日本の防衛に関する問題は、与野党間の論争のみならず、政治を見守る世間一般までを渦中に巻き込みながら、論議活発なるようで実際にはろくな議論もないまま過ぎている。その限りで、勿論、与党である自民党も含めて、現今の政治が行なっている防衛論も防衛そのものも、およそ虚しいものでしかないような気がする。

石原慎太郎氏 ©文藝春秋

 日本の政治における防衛論の不毛の原因は、何よりも、いかなる論においても、その前提に殆んどアプリオリ(編集部注:自明的な認識)として、ある種の道義観(モラル)が敷かれていることだ。そのため、防衛の問題が、純論理的に論じられることがまずあり得ない。

 勿論、政治の場で行なわれるべき防衛論議は単に純理論的であるべきではなく、当事者当事国の心理感情等、論理的に不可知の要件を充分加味すべきではあるが、それが過剰というより、形而上的要素がアプリオリにまでなり、大前提のモラルがどうやら与野党共通であることによって、論議は結局堂々巡りの馴れ合い染みたものに終ってしまう。

 いつかどこかで司馬遼太郎氏が、「どうやら日本人にとっては、現実よりも観念のほうが現実性があるようだ」といっていたように、そうした思考法の滑稽さは、何よりも現実的でなくてはならぬ筈の防衛論の中で一番濃いようだ。