2022年2月1日、89歳でこの世を去った石原慎太郎氏。一橋大学在学中の1956年に作家として鮮烈なデビューを果たし、1968年に政界進出後は政治家としても大きな注目を集める存在となった。

 ここでは、同氏の文筆活動のエッセンスをまとめた『石原慎太郎と日本の青春』(文春ムック)から、1970年に日本の防衛論について綴った「非核の神話は消えた 1970年の先駆的核保有論」の内容を紹介する。(全3回の3回目/1回目を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

中国がICBMを持ったとき

 我々にこのタブー破壊に対する態度の選択を前よりも強く強いたのは、ICBM(編集部注:大陸間弾道ミサイル)に繋がり得る可能性を持った中国の人工衛星打ち上げである。すでに今年度4月の毎日新聞の中国核兵器に対する世論調査は、程度の差はあれ、中国の核兵器に対する国民の恐怖感を78%と報告している。

 先年日本に立ち寄って中国の核兵器に関して講演を行なった、米国における最も信頼し得る中国通のアリス・シェイは、米国会の委員会での証言で、中国はその核兵器の能力を顕示することで、直接軍事行動を起すことなく、外交的恫喝脅迫によって、米国を、極東及び東南アジアにおけるその同盟国を核によって守る力のないものとしてイメイジづけ、大きな利益を希(のぞ)み得る。

 つまり、日本や台湾にとっての米国の抑止力の信頼性は稀薄となり、もし核の交戦が行なわれた際、米国の同盟国は潰滅するが、中国は米国自身の核交戦への決断があり得ぬために、生存する。結果として、米国と同盟国の安保条約は、同盟国側からの、米国の過激な行動への抑止力になり得、つまり、同盟国は中国にとっての人質となり得る、といっている。

 更にそれを演繹すれば、中国の核能力がつくり出した新しい状況の中では、純理論的には、中国は米国から核による報復攻撃を受ける危険を賭しても、日本を攻撃し得る、ということになる。

石原慎太郎氏 ©文藝春秋

 我々は中国の意図については知ることは出来ず、日本の野党といえどもそれを保証することなど出来るものではない。中国の意図に対する憶測は別にして、現実に存在する彼我の能力的可能性だけを考えれば、アリス・シェイのいうところは顕かに成り立つ。

 中国が未だMRBM(準中距離弾道ミサイル)しか持たない現況でも、アメリカのICBMは中国を、中国のMRBMは日本を、それぞれ一方的に規制し得るが、問題は、日本がMRBMによって無抵抗のまま(日本にはMRBMをも実際に防ぐ手段は皆無である)、甚大な被害を受ける場合、米国はその報復として中国にICBMによる大被害を与えても、日本の被害とそれが果して釣り合うかどうか、或いはまた、甚大な被害を見越しても尚、日本が中国に譲歩せず、自らに代る報復を米国に依頼するか、あるいはそれとも自らを覆っていたアメリカの核の傘の発進を中止させるか、このジレンマはすでに成立している。

 ここで、所謂親中国派が、隣国中国がそんな脅迫をする訳がない、という主張は、他国の意図の問題であって、論の範疇が異なる。我々はまず、あくまでも相手の能力が持ち得る可能性の組み合わせから始めなくてはならない。