日本を加えて、その綜合的均衡で中ソともどもに完全な抑止状態を持てたアメリカが、どうしてソヴィエトへの牽制のために中国接近を計る必要があるのか。
我が国の対中政策は、その綜合多辺的パリティの上に、毛沢東のいう上策を互いに対等にかざして、中国を懸念する他の東南アジア諸国のためにも積極的に、最高度の国際政治として、所謂、ニュークレア・ダイアローグとして行なわれるべきであろう。それ以外に、今日の中国がどうしてあからさまにその胸を開き得るだろうか。
議論だけでも現実を変えうる
そして、我が国が外交の上で行なうニュークレア・ダイアローグは、日本が将来かまえる経済紛争解決の外交交渉に、必然アメリカを巻き込まずには置かない。核の外交的吸引力である。そうした両者の関係こそが、我々の自主性に基づいた、新しい日米関係として目されるべきではないだろうか。
我々はこの国、即ち日本を守らなくてはならない。守るということは、場合によってはそのために、犠牲を払い、そして更に、もっと決定的な覚悟をさえ、相手に向って示す、ということである。防衛論はまず、その矜持の選択の上に初めてあり得る。犠牲があるのならば、無抵抗に相手に譲歩する、というのでは、守らぬ、ということでしかない。
勿論、その犠牲は、最も合理的に、最小限にとどめられるべき努力が必要である。しかし防衛のための犠牲を認めぬ、というのでは防衛はなりたち得ない。
そして防衛における合理性と人間性は、あり得るかも知れぬ犠牲を更に縮小するために、他とのバランスにおいて可能な限りの出費をするということにも通じる。
日本の核保有は、それらの要件を満たさなくてはならない。しかし、その要件の許容性を計る前に、頭からそれをタブーとして避けては、或いは我々は生命以外の総てを喪うことになるかも知れない。
「自由」を何の償いで量るかは個人の勝手であるが、我々が価値ある自由を喪い得る可能性が、現実を冷静に計算すれば弾き出されるということを、多くの偽瞞に埋れた日本の防衛論の中で、我々はもう一度覚り直す必要があるのではなかろうか。
そしてまた、避けることなくそのタブーについて、我々自身が激しく論じ合うこと自体が、世界の現実を規制し、変えていくということをも知るべきである。
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