国際関係の視点の欠如
こうした範疇を逸脱したアプリオリに自らを縛っているその論を狂わせる誤りは、実は、防衛庁という、防衛の純専門的組織の内にも見られる。
例えばすべてではないにしても、防衛研修所のような、彼らこそ純理論的にことを考えていかなくてはならぬ分野の人間たちの頭にも、すでに、論の本質と矛盾したモラルがアプリオリとしてある。
それは、後に述べるが、日本の核問題に関して最も顕著に現われ、政府当事者になればなるほど政治的外聞を気にしアプリオリへの配慮を心がけなくてはならぬ、新しい防衛庁長官を規定し、軽挙な判断を強いてしまうのである。
その結果、いつまでたっても日本には、国中の防衛論の1つの座標軸となり得るような、防衛戦略の純理論的スケルトンが存在し得ない。
日本の政治における防衛論の偽瞞と誤りのもう1つの原因は、日本の戦略と、その背景にある国際関係を考えていくための多極的な視点の欠如である。どう眺めても日本の国際政略国際戦略は、極めて偏極的でしかない。
スタンリイ・ホフマンは、今日の国際政治は、ポリセントリズム、バイポラリティ、マルティポラルティの3要素に依らなければ正しい考察は出来得ないとしているが、日本の政治当事者の殆どは、口では70年代を多極化の時代などといいながらも、実際にはそうした視点を欠き、他の総ての国際問題を考え論じる場合にも結局は必ず、日米関係というバイラテラルな要素がその極を占めることになるのだ。
そうした偏極性は結果として、外交や軍事の、現状への正確な適応を欠いた保守的な形態となって現われて来る。自らが極芯として据えた1つの関係が、実は、相手側の事情の変化ですでに昔日の価値や意味を持ち得なくなっているのに尚、1人勝手にそれを嘗てと等価と錯覚しつづけることで、実はその偏極的関係自体も損われかねない。
今日の日米関係は、そういう状況にさしかかっているのではないか。
或いはまた、そうした偏極的保守性は、他の要件の著しい変化にも眼を塞ぎ、現況の正確な把握を誤らせ、自らの外交と軍事をますます保守的なものにしてしまう。
私は過去に何度も、エーリヒ・フロムの文化遅滞(カルチュラルラグ)に関する公式を引いて、発展先進した技術体系に照応順応し切れぬ人間たちの保守性について述べ、その最も象徴的な事例として、核という新しい、決定的な技術体系に心理的感情的にとり残されたまま反撥する日本の所謂進歩的インテリの実質的保守性に触れて来たが、実は今日、そうした進歩派と同じように、自らは保守とは称しながら、彼らに比べれば実質的進歩性を持ち得た、それ故に国民の支持もあり得た自民党の、安保を軸にしたアメリカ依存の防衛構想の内に、アメリカを含めて今日の核技術の先進国が核兵器に関する技術の上でさしかかっている現況を熟知せぬことで生じたギャップが、遅滞を生み、防衛構想の保守性をかもし出していることを知らなくてはなるまい。
つまり、日本の外交や防衛は、野党の自ら意図した陳腐な保守性と、与党の安逸さの内にかもし出された保守性の、二重の偽瞞のがんじがらめにされようとしているのだ。