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形骸でしかない日米安保条約

 日本の防衛論の本質的欠陥について触れた後で、まず、過去から現在にかけての、その欠陥がもたらした偽瞞について指摘したい。

 私は昨年の11月、ワシントンでの沖縄返還交渉随行の後、アメリカの核戦略基地である、コロラドスプリングスのNORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)と、オマハのSAC(戦略航空軍団)を見学した。いうまでもなく、この2つの基地の機構がアメリカ核戦略の心臓部である。

 現場でいろいろ確かめて先ず驚いたのは、SACが誕生以来就任しているある担当将官が、自分が知る限り、ここを訪れた日本の国会議員は外相当時の小坂善太郎氏だけであるといったことだった。

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 安保を支持する与党の政治家たちが安保の何を評価しているのかは知らぬが、その最大眼目である、アメリカの核の傘の実態がどのようなものであるかを自らの眼で確かめようとする人間が殆どない、ということは政治の責任を問われても仕方あるまい。

 そして、与党への新参の私が自分の眼で確かめたアメリカの核の傘なるものの機能と実態は、予期し覚悟していた以上に、安保に期待するものにとっては心外なものでしかなかった。

©文藝春秋

 結論からいえば、アメリカの核戦略の機能の実態から見て、日米安保条約は実質的に形骸でしかない。安保の最大眼目であるアメリカの核の傘は、アメリカとNORADに参加しているカナダの一部のためにはあっても、日本にさしかけられてはいない。

 ならば一体、我々は、極東の緊張や緊急の際に、米軍を日本のためにも、日本国内の基地から発進せしめるためだけに安保を結んで来たのか。

 たとい過去の10年はそれでよしとしても、瞠目すべき経済発展を遂げたこの1970年という時点に、安保を自動継続せしめる眼目は何であるのかを確かめ直す必要がある。

 それは、アメリカがそれぞれ安保条約を結んでいる極東の他国家の緊急事態を防衛する段に、日本の防衛の関連において、基地供与といった形でそれを保障するためだけではあるまい。