それにしても、非核三原則とは何と滑稽な、ことの本質を逸脱した政治指針であろうか。そもそも、それがいい出された動機からしてが、我国の防衛や外交と本質的に関りないものでしかない。昨年の春遅く、総選挙が行なわれる可能性が政局に現れ、その際、自民党内の反主流派は、総選挙における自らのイメイジアップのために、主流派批判のスローガンの1つとしてこの三原則を唱える気配を見せ、それを先取りして封じるために、国会で政府当事者によってそれがいい出された、というのが真相のようだ。
現況の国民の心理状態からすれば、やがてもっと冷静な判断を仰げる時点まで巧みにぼかしてとっておかなくてはならぬ国家にとって致命的な玉手箱を、権勢獲得のためならば、手段として簡単にあけてしまうという政治の軽率さは、結局後々、自らを縛ることになるのである。
日本の「主体性」はどこにあるのか?
現況、野党が一方的に押しつけて来る三原則の解釈を押されっ放しで受けとりかねない政府のために、私は昨年の予算委員会でも愛知外相に、三原則の安保との矛盾性について念を押し、持ち込みに関する日本側の主体性について確認し、外相もまた、主格がまぎらわしい「持ち込み」の部分では、相手側に「持ち込まさせる」我が方の主体性は確保している、と答え、野党、特に社会党は色めきたったが、当り前の話ではないか。
我々は、つくらぬ、持たぬが故に、場合によっては持ち込まさせる可能性を想定しなくてはならず、国際関係の現状で、沖縄の戦術核までをとり払えと主張した日本の、将来核を「持ち込まさせ」なくてはならぬケースの危険度認知が奈辺にあるかは想像できないが、いずれにしても、持ち込みのオプションは我々にあるのだ。
が、緊急の際、日本人の核心理に最低限許容され得る筈のABMが、その機能からしてアメリカにおいても予算が削除され、ABMはその防御能力に疑念があり、抑止力たり得ないという結論をアメリカ自身が下した現在、我々は緊急の際のために残された他の方法で自らのことを考え直さなくてはなるまい。
残された方法とは、我々が自らの核兵器を持つという、現況では神格化されたタブーの破壊である。しかし少なくとも、その可否を論じることを避けることは、周囲の諸情勢が許さなくなっている。それをそう感じないのは、日本人だけであろうが。
【3回目へ続く】