前述したとおり、前年(1983年)3月より兵庫県警鑑識課の課長補佐(現場検証、企画、警察犬担当)という立場にあった私も、すぐに現場へ出動することになった。
現場鑑識の仕事は、犯罪が起きた場所から指紋や遺留品、足跡、DNAなどの鑑識資料を採取することに加え、遺体の身元確認作業、また警察犬を使った捜査なども担当する。鑑識の仕事については別頁でも触れるが、殺人事件ではときに凄惨な現場を直視しなければならず、また放火や変死、自動車や列車、航空機の事故など専門的な知見が必要になるケースも多数あるため、ハードなうえに勉強も必要というのがこの部署の特徴である。
「焼き切り」で割られていたガラス
私が現場に到着したのは午後11時を過ぎた時間だった。2年前に40歳の若さで副社長から社長に昇格したという江崎氏の邸宅は、西宮署からわずか300メートルほどの位置に建つ、北欧風の瀟洒な一軒家だった。
敷地内には、江崎社長の母が1人で住む母屋と、社長一家(夫人、長男、長女、次女)が暮らす家の2軒が隣接する形で建っていた。「2人組の男」はまず母屋に侵入し、当時70歳の母親を脅して合鍵を奪うと、母をビニールロープやガムテープで縛り、江崎社長の家に正面から侵入。社長の自宅にはセコムの最新防犯システムが設置されていたが、男たちは通常の方法で家に入ったため、システムは作動しなかったことが分かった。
そのとき江崎社長は長男、次女とともに入浴中だった。目出し帽をかぶった2人組の男は、室内にいた夫人をテープで縛り上げると、銃のようなもので江崎社長を威嚇し、浴室から連れ出した。その後、自力でテープを外した夫人が110番通報したが、すでに江崎社長は拉致された後だった。
破られた勝手口のガラス戸
上場企業の社長が誘拐されたとの一報を受け、捜査一課長も直々に現場に入った。手入れの行き届いた庭園のある敷地は、さすが上場企業の社長宅と思わせる広さだった。
まず、犯人が最初に侵入した母屋の勝手口から鑑識作業が始まった。
「ああ、焼き切りや……」