そしてその日、気仙沼に駆けつけた糸井さんとのスペシャルトークのあと、志の輔師匠は「紺屋高尾」をかけた。
吉原で絶頂を極める高尾太夫と、紺屋に奉公する久蔵が結ばれるファンタジーである。
志の輔師匠の「紺屋高尾」は、久蔵の手が青いのはどうしてなのか、他の演者と比べると、この説明が丁寧なのである。染物屋で働いていると、布だけでなく、自分の手までが青く染まってしまう。
この噺を聞いた和枝さんはいう。
「青く染まっている手というのは、一生懸命働いている象徴ですよね。気仙沼でも、魚相手に手を使って働いている人がたくさんいて、それと重ね合わせてしまいました」
気仙沼で聴く「紺屋高尾」は、東京で聴くのとは違った味わいがあった。
水を打ったような客席。高座と客席は共鳴した。そしてカーテンコールでは、驚きの報告が。
なんと、志の輔師匠の息子さんが、気仙沼出身の女性と結ばれたというのだ。
「紺屋高尾」の後の、うれしい驚き。これも気仙沼が取り持った縁なのかもしれない。
「できれば来年は…」
無事に独演会を終えたその翌週には、東北地方を大きな地震が襲った。それでも、和枝さんをはじめ気仙沼の人たちの日常は続いていく。三陸に住む人たちは地震から逃れられないことを受け入れ、日々、生活する。
無事に独演会を終え、和枝さんはこう感じている。
「今回もお手伝い下さったほぼ日さん、志の輔師匠のスタッフをはじめ、気仙沼の外に住む数えきれない方のお世話になりました。気仙沼に住む自分たちで開催して思ったことは、『おかえり寄席』は、気仙沼の人と、気仙沼にご縁を作ってくださるみんなで作るものだと思いました」
そして視線は来年へと向いている。和枝さんは、この「おかえり寄席」は未完だと語る。
「本来は師匠の独演会と、飲み歩きが出来る『おかえりバル』、そしてみしおね横丁での『おかえりマルシェ』の3点セットで、みなさんをお迎えしたかったんです。でもコロナの影響で、飲み歩きはさすがに出来ないということで、今年は独演会とマルシェだけの開催になりました。出来れば来年は、3つが揃うといいなと思っています」
「3」という数字は気仙沼にとって重要な数字であり、言葉である。
気仙沼湾を俯瞰すると、安波山(あんばさん)、亀山(かめやま・『おかえりモネ』の舞台の島にある山)、早馬山(はやまさん)の3つの山が鼎のように並んでいることから、気仙沼湾のことを鼎が浦(かなえがうら)と呼んできた。
いまは統合されてしまったが、気仙沼にあった公立の女子高は鼎が浦高校という学校名だった。和枝さんも、この学校の卒業生である。
「来年は3つ揃えて、自分たちがしっかりと立っていることをお見せしたいです」
立川志の輔という稀代の落語家と、気仙沼の人たちの熱意の掛け合わせは、独特の空間を生み出している。
私にとって年に一度の帰省は、「おかえり寄席」の週末になりそうだ。