主将に竹下を抜擢
責任を果たしたという安堵感からか、吉原に少し笑みが戻った。
「能力は別にして、闘う魂はみんなに植えつけられたかなと思いました。次の北京五輪まで選手個々がスキルを高め、監督の戦術・戦略次第では、いいところまでいけるんじゃないかという手応えは生まれました」
柳本ジャパンがスタートしたときの世界ランキングは11位。アテネ五輪が終わると5位にまで浮上した。この1年で6段階ジャンプアップしたことになる。柳本の選手選びの手腕もさることながら、吉原という強烈なカンフル剤が全日本をよみがえらせたと言ってもいい。
最後の仕事をやり遂げた吉原は引退を決めた。
アテネ五輪の翌年3月、新生柳本ジャパンがスタートした。
オリンピックを闘うにはいかに経験を積んだ選手が大事かを悟った柳本は、アテネ五輪のメンバーの竹下、大友、高橋、杉山、栗原、大山、木村をチームの中心選手に据え、リベロにはアテネの最終予選で成田にその座を譲った佐野を復活させた。
柳本は主将に竹下を抜擢。
だが竹下は、主将を承諾するつもりはなかった。チームのリーダーは、アタッカーがふさわしいと考えていたからである。セッターは勝敗を左右する大事なポジションであるものの、直接ポイントにはからまない。チームの士気に大きく影響を与えるのは、ここぞというときに打ちまくる姿を見せながら、仲間を引っ張っていくアタッカーのポジション。チームの中心になるべき人はアタッカーが理想、と考えていた。
「アテネのときはトモさんが前面にいて、私は2番手3番手にいたから若い選手のフォローが出来たんです。自分が精神的にパンパンになって、それでも詰め込んでやっていたらセッターの仕事が疎(おろそ)かになるし、ほかのことも中途半端になってしまう。そうなったら今の私はない。客観的な観点でチームを見られるのも、トモさんに付いていられる立場だったからなんです」
だが柳本は、竹下の承諾を得る前にメディアに発表。責任感が人一倍強い竹下が、断れるはずがなく、引き受ける条件として、柳本に1つの断りを入れた。
「トモさんと同じようなキャプテンを求めていらっしゃるのであれば、私には出来ません」
柳本は即答した。
「テンのやり方でチームを引っ張ってくれればそれでいい」
責任の重さが肩にのしかかったものの、引き受けるにあたり、新たなテーマを自分に課した。覚悟を決めた竹下は、毅然とした面持ちで主将としての抱負を語った。
「アテネのチームは、トモさんをはじめとする先輩方の背中を見ながら、みんなが必死でついていくという感じだった。先輩たちの背中から色んなことを学んだけど、じゃあ、後輩に何か言葉で伝えきったかと言ったら、それは出来ていない部分もあったと思うんです。若い選手には言葉で伝えてあげないと、次世代に継承されないこともある。だから新生全日本では、チームのコミュニケーションを第一に考えたい」