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主将は大友に渡そうと考えていた

 竹下は新生柳本ジャパンがスタートしてしばらくはチームの地ならしを行い、基盤が出来上がったところで主将は大友に渡そうと考えていた。全日本の切り込み隊長でもある大友は、明るくさっぱりした性格でチームの誰とでもすぐに打ち解けられる。彼女がリーダーに適任だと考えた。

 だが竹下のこの秘かな計画は、05年秋のグランドチャンピオンシップの後、すぐに砕けた。大友が妊娠・結婚で引退してしまったからだ。日本の大砲・大山加奈も腰痛のため全日本から離脱。もう1人のエース・栗原恵も足や腰の故障が重なり、全日本で顔を合わせる回数がめっきり減った。新たなメンバーが加わり、加わっては消えた。

 竹下がチーム内のコミュニケーションを図ろうにも、メンバーがコロコロ代わっては意思疎通が出来ない。もともと、口下手だった竹下は心労で眉が抜け落ちた。

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2006年、バレーボールワールドグランプリ時の竹下佳江選手 ©文藝春秋

「ストレスで円形脱毛症になったという話はよく聞くんですけど、私は眉にきちゃった。あるとき鏡を見たら“麻呂”のような顔になっていて自分でもびっくりしました」

 06年の世界選手権は、新顔の若手を多く起用したためミスが多く、6位に沈んだ。それでも前大会の13位に比べれば急上昇である。大友に代わるセンター、荒木絵里香の成長がチームを底上げした。07年のアジア選手権では24年ぶりに優勝を果たした。05年の同大会では3位だったことからも、北京に向け着々と準備が整っているように見えた。

 第2次柳本ジャパンが新しく取り組んできた戦術の一つに“1秒の壁”というものがあった。相手ブロックをかわすために、トスを上げてから1秒以内にアタッカーが打つ。この完成度が上がれば、世界に通用すると柳本は考えた。

 だが、この精度を高めるには、セッターとアタッカーが、瞬きの差もないほど呼吸を合わせなくてはならない。その一方で、毎年のように全日本のアタッカーが代わり、そのたびにまた一からやり直さなければならず、“1秒の壁”作戦が完成できないまま、07年秋のワールドカップを迎えた。

 ワールドカップには、翌年の北京五輪を見据え、2人のベテランが新たに招集される。ブロッカーの大村加奈子とセンターの多治見麻子である。多治見はなんと、99年ワールドカップ以来8年ぶりの代表選出だった。シドニー五輪を目指していたチームの主将を務めながら、最終予選前に怪我をしたことが心の中にくすぶっていた多治見には、願ってもないチャンスだった。

「まさか35歳になって呼ばれるとは思っていなかったから、そりゃあ、ビックリしましたよ。でも、私が知っている全日本とは雰囲気が違っていた。監督がなんかやたらと選手に気を使っているチームだな、って」

 ワールドカップは7位。翌年5月の世界最終予選で出場権を獲得し、北京五輪を迎えた。