アカデミー賞で、妻の脱毛症の容姿を揶揄したコメディアン、クリス・ロックに怒りのビンタを浴びせたウィル・スミス。この問題が大きく論じられた背景には、「メディアでの人種の扱われ方」の変化があると、ハーバード大学医学部助教授の内田舞さんは考えます。(全2回の2回目/前編を読む)
ミスター・ユニヨシの表象への批判は失礼?
アジア人差別を含む映画の表象に問題提言をした論文や記事などはたくさんありますが、特に白人の視聴者からは『ティファニーで朝食を』という名作を批判して、この表現を差別だと呼ぶなんて、映画に関わった人達、頑張って演じた役者に失礼だ、などという反応もあったそうです。
しかし、このように特定の人種への差別が表象されることの問題は、映画製作者や役者個人の判断として問えるほど単純なものでもありません。そもそもキャラクターの表象には、その時代における意識も大きく作用するもので、ひとりの製作関係者の判断の背景には、社会の常識、社会の集合的無意識のようなものもあるはずです。アジア人男性を馬鹿にするような表象を特に問題視しない常識が社会で共有されていれば、映画製作者も消費者も、仮に映画作品の中で差別的な表現がなされていても、それを差別だと認識できないでしょう。現に1961年の映画公開直後、New York Timesはミスター・ユニヨシのコメディを賞賛しました。
また、映画で日本人男性(またはアジア人男性)が馬鹿にされている姿を多くの視聴者が目にすることによって、社会で現に共有されている「アジア人男性は馬鹿にしてもいい」という常識がさらに強まることもあるでしょう。
このように、メディアで目にする特定の人種に関する描写は社会の中でその人種がどのように扱われているかの表れであり、その描写はさらに社会へ影響を及ぼすものでもあって、メディアの中の表象と社会における扱われ方は相互に影響しあう側面があります。その相互作用に気付く努力をしない限り、結局のところ苦しむのは「馬鹿にしてもいい」という常識が人々に共有され、馬鹿にされ続けるアジア人男性です。
このようなアジア人の表象に関して、ハリウッド、そしてアメリカのメディアは、何十年にもわたる批判を受けて、やっと最近少しずつ変わってきているのを感じます。
表現の自由を守るためにこそ表象の議論が必要
アジア人男性のステレオタイプな表象に関して考え直そうという動きに対しては、「映画やアニメ製作者が規制を受けなければならないのか」「それは表現の自由を侵すのではないか」という意見も、特にアメリカの白人社会から出ています。「表現の自由」は自由社会と民主主義を支える根本なので、芸術やテレビ番組の表現に対する政府による大きな規制には、私も賛成できません。表現の自由は保たれるべきだと強く信じています。
しかし、芸術や言葉を通しての表現の自由は誰にでも保障されているからこそ、メディアや芸術を通しての差別表現には、一人ひとりの視聴者に責任があるともいえると思うのです。一人ひとりが差別表現に気付く努力をして、議論を蓄積していかなければならないと思うのです。
アメリカにおける「表現の自由」に関する法律や法的な規制も、『ティファニーで朝食を』が製作された1961年当時から大きく変わっていません。アジア人男性を差別したり、搾取する表現に関してはアメリカ政府が規制したのではなく、社会からの問題提起があり、多くの人の議論、気付きの連鎖とその蓄積によって大きな変化が見られ始めたのです。