ウクライナと日本の交流は実は戦前からあった。外交官時代の芦田均も、ウクライナ情勢観察のためかキエフの街を訪れている。のちに日本の総理大臣となる彼はそこで何を見たのか? そして当時盛んだった「ウクライナ自治運動」をなぜ冷たい目で見ていたのか?
芦田均の「ウクライナ訪問記」を、『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』(中央公論新社)より紹介。(全2回の1回目/後編を読む)
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ウクライナと日本の関わりはいつからか?
1917年10月レーニンの指導するボリシェヴィキはペトログラードにおいて武力により臨時政府を倒し、ソヴィエト政府を樹立した。ウクライナ中央ラーダはこの暴力による権力奪取を認めず、ボリシェヴィキを非難した。
また臨時政府の消滅にともない11月中央ラーダと総書記局は、第3次ウニヴェルサルを発表し、「ウクライナ国民共和国」の創設を宣言した。ウクライナは国家の樹立を宣言したが、ロシアとの連邦の絆は維持するとした。
ただラーダはペトログラードのボリシェヴィキ政権を認めておらず、といってロシア中央に他の民主的政府も存在していない状況ではこれは事実上ウクライナの独立宣言であった。現に当時ウクライナでは中央ラーダが圧倒的な支持を得ていたことからすれば、この時点から独立国ウクライナが存在し始めたといっても間違いないであろう。
第3次ウニヴェルサルで謳われたウクライナ国民共和国の原則は社会主義的な要素をも含むが、きわめて民主的なものであった。すなわち、言論・出版・信条・集会・ストライキの自由、個人の不可侵、死刑廃止、政治犯の大赦、少数民族の自治の権利、8時間労働、土地の私有の制限、生産手段の規制、戦争の終結などである。
また領域も上記5県にハルキフ、カテリノスラフ、ヘルソン、タウリダ(クリミアをのぞく)を加えて9県となり、ほぼロシア帝国時代のウクライナの領域を回復した。
ウクライナの地に中央ラーダの権威が確立されてきたことに各国も注目し、オブザーバーをキエフに送った。とくに英仏は中央ラーダ政府が独墺と独自に和平交渉を行うことを防ぐため、ウクライナ国民共和国を承認し、代表をキエフに送った。
さてここで日本も少し登場してくる。ウクライナ史学者のジュコフスキーは、英仏など連合国の一員であった日本も1917年(大正6年)7月、在ペトログラードの日本大使館のアシダ館員を中央ラーダに送り、ウクライナ情勢を観察させ、また同年11月には同大使館付武官のタカヤナチ将軍(ロシア大本営付武官高柳保太郎少将のこと)を長とする軍事ミッションをキエフに開いたと記述している。
この高柳ミッションが単なる情報収集のためだったのか、あるいはもっと積極的に日本としてもボリシェヴィキを潰すため中央ラーダを盛り立てていこうとの意図に出たものか詳細は不明である。