ウクライナへの弾圧は、戦前にも行われていた。特にひどかったのが、1924年から1953年までソ連の最高指導者を務めたヨシフ・スターリンによる政策だ。
餓死者は推計300万〜600万人、挙句の果てには時のウクライナ首相リュブチェンコ氏を自殺に追いやったスターリンの政策とはいったい? 『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』(中央公論新社)より紹介。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
ウクライナに猜疑心を抱いたスターリン
ウクライナ化は1930年代前半まで続いたが、すでに1920年代の後半から締めつけも同時進行していた。原則には頑固だが戦術には柔軟だったレーニンが1924年に53歳で死亡し、1927年にトロツキー(1879~1940)、ジノヴィエフ(1883~1936)らのライヴァルを追放してスターリン(1879~1953)が権力を掌握したのが転換点であった。
ちなみにロシア革命にレーニンに次ぐ大きな足跡を残したトロツキーとジノヴィエフはいずれもウクライナ生まれのユダヤ人だった。スターリンは自身グルジア人ながら、ロシア中心の中央集権主義者で、かねてから民族の自治拡大に反対であった。また彼は農民を信じておらず、農民は革命の担い手というより克服すべき対象と考えていた。彼は、農民の国で民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていたようである。
さらにスターリンは、外国の脅威からソ連を守ることを至上命令とする「一国社会主義」の立場から、いかなる犠牲を払っても近代化、工業化した社会主義国を早急に作り上げなければならないと考えていた。その手段が数次にわたる五カ年計画であり、農業集団化であった。
第1次五カ年計画(1928~32年)ではウクライナは重点地域であった。ウクライナは全ソ連の投資の20%を受けた。全ソ連で1400の新工場ができたうちで400がウクライナに作られた。そしてそのいくつかは巨大であった。ドニエプル川のダムと水力発電所はヨーロッパ最大のものであった。またザポリッジアの製鉄工場やハルキフのトラクター工場はヨーロッパ最大規模のものであった。ドンバスからドニプロペトロフスク(カテリノスラフが改名)を経てクリヴィーリフに至る地域はソ連最大のコンビナートとなった。生産力躍進のためのスタハノフ運動のモデルとなったスタハノフ(1906~77)はドネツ炭田の切り出し工であった。彼はノルマの14倍の石炭を切り出したという。
この工業化の結果のひとつが、ウクライナ人の都市への移住である。革命前の工業化のときには主にロシア人・ユダヤ人が労働者として連れてこられ、彼らが都市住民となった。今回は、ロシアも労働力不足で余裕がなく農村のウクライナ人が工場労働者として使われ、都市に住みついたのである。
1926年ウクライナの都市人口の比率は全体の5分の1であったが、第2次世界大戦直前には3分の1にまで上昇した。また都市におけるウクライナ人の比率も1926年には6%であったものが、1939年には30%にまでなった。