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数百万人が餓死し、ついには首相が自殺……ウクライナを破壊し尽くした「スターリン」の大虐殺

『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』より #2

2022/04/18

抵抗する農民は「シベリア送り」

 スターリンは農民をむしろ社会主義に対する抵抗勢力と考えていた節があり、彼らをスターリンの考える社会主義体制に組み込むには手荒な手段を使うのもやむをえないと考えていた。すなわち政治的には、個人主義的で独立意識の強い農民を上意下達の組織の中に封じ込めることが必要であった。

 また経済的には、国是である早急な工業化のため安い食糧を農村から調達して工場労働者に与える必要があったし、また機械輸入に必要な外貨を稼ぐため穀物を輸出する必要があった。そしてこの手段が、1928年に始まり1929年から強制的になった「農業集団化」であった。

 農業の集団化とは、これまで自分の土地を耕して自活していた農民を国営農場(ウクライナ語ラドホスプ、ロシア語ソフホーズ)または集団農場(ウクライナ語コルホスプ、ロシア語コルホーズ)に入れてその一員とすることである。いわば農民を土地から切り離し、農業の労働者かプロレタリアートに変えてしまうことである。農民は抵抗した。たとえば集団農場入りを余儀なくされると農民はその前に自分の家畜を屠殺して食用にするなり売るなりした。こうして1928~32年の間にウクライナは家畜の半分を失った。しかし、党・政府はあらゆる手を使って集団化を進めた。抵抗する者は逮捕され、シベリア送りになった。また自活農が成り立たないよう高率な税を課したり、種々の嫌がらせをした。さらに「クラーク」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民の中のブルジョワであり、農民階級ひいては人民の敵であるとして土地を没収されたり、収容所送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けた。

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スターリンの集団化が「大飢饉」を招いた

 ウクライナでは、この集団化は1930~31年に急速に進行した。その結果、ウクライナでは1928年には3.4%の農家が集団化されていたのみであったが、1935年には91.3%が集団化されていた。

 集団化はスターリンとその党の支配の永続化には寄与したかもしれないが、ウクライナにとっては惨憺たる結果をもたらした。それが1932~33年の大飢饉である。

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 1930年ウクライナの穀物生産は2100万トンと比較的良好であり、政府による調達量は760万トンであった。この調達量はすでに1920年代の2倍であった。1931年は不作であり、対前年比65%の1400万トンであったが、調達量は変わらなかった。

 1932年の生産も1400万トンで、前年同様の不作であった。この収穫減は集団化による混乱が主たる原因であった。またウクライナは全ソ連の穀物の27%を収穫したが政府調達ノルマは全ソ連の38%に上ったとしている文献もある。

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