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 農民はこの調達に抵抗した。しかしモスクワの党・政府は強引に調達を進めた。党の活動家は農家から穀物を押収する法的権利を得た。党活動家の一団が都市からやって来て農家の一戸一戸を回り、床を壊すなどして穀物を探した。飢えていない者は食物を隠していると思われた。食物を隠している者は社会主義財産の窃盗として死刑とする法律が制定された。

 こうして飢饉は1933年春にそのピークを迎えた。飢饉はソ連の中ではウクライナと北カフカスで起きた。都市住民ではなく食糧を生産する農民が飢え、穀物生産の少ないロシア中心部ではなく穀倉のウクライナに飢饉が起きたということはまことに異常な事態である。農民はパンがなく、ねずみ、木の皮、葉まで食べた。人肉食いの話も多く伝わっている。村全体が死に絶えたところもあった。

 フルシチョフ(1894~1971)はその回想録の中で、1本の列車が飢え死にした人々の死体を満杯にしてキエフ駅に入ったが、それはポルタヴァからキエフまでずっと死体を拾い上げてきたからだとの話を紹介している。

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飢饉で「村民の3分の1」が死んだ村も

 この飢饉でどれだけ餓死者が出たかは、ソ連政府が隠していたためよくわからない。ある学者は300万~600万人の間と推計している。独立後のウクライナの公式見解を盛り込み、クチマ大統領(1938~)の巻頭言も載っている『ウクライナについての全て』(1998年)では、この飢饉によりウクライナ共和国では350万人が餓死し、出生率の低下を含めた人口の減少は500万人におよび、その他北カフカス在住のウクライナ人約100万人が死んだとしている。北カフカス出身で少なくとも母方がウクライナ系であるゴルバチョフ(1931~)は、自分の村でもこの飢饉で3分の1が死んだと語ったという。

 この飢饉の特徴は何であろうか。第1に、これは強制的な集団化や穀物調達のために起こった人為的な飢饉であり、必然性はなかったということだ。その意味でこれはユダヤ人に対するホロコーストにも匹敵するジェノサイドだという学者もいる。

 第2に、ロシア本体がこの飢饉をほとんど経験しなかったことである。これはスターリンがウクライナの民族主義を弱めるために意図的にやったことだという説を生んだ。その証拠として、スターリンの「民族問題とは農民問題のことである」という発言や、1930年の『プラウダ』紙の「ウクライナにおける集団化はウクライナ民族主義(個人所有の農家の農業)の基盤を破壊するという特別な任務をもつ」という所説が挙げられている。

 第3に、この飢饉はソ連ではできるだけ隠されていたことである。公式には存在しないことになっていた。それに影響されて西側の歴史書でもつい最近までこの飢饉に言及していなかった。1986年に至ってさえ、ソ連官製のウクライナ史は「恐るべき食糧問題があった」とのみ述べて飢饉の事実にはまったく触れていない。当時ソ連は対外的に弱みを見せたくなかったのであろう。外国からの救援の申し出も断っているが、このことが被害を一層大きくしたことは疑いない。それよりも、この時期にもソ連は平然と穀物を輸出し続けていたのである。