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次に始まったのはインテリ・文化人弾圧

 スターリンの権力掌握でウクライナの自治に制限が始まり、ウクライナ人が農業集団化、穀物調達に抵抗したことでその流れは一層強まった。1920年代に活躍したインテリ・文化人に対する攻撃が始まった。1931年にはフルシェフスキーのアカデミー歴史部門も閉鎖された。彼はロシアに追放され、1934年カフカスで寂しく死んだ。

 1932年頃からは共産党員に対する粛清が始まった。ソ連全体の大粛清は1936~38年に起きたのであるから、ウクライナに限ってはその数年前から始まっていたことになる。これは集団化、穀物調達に対するウクライナの抵抗の強さを見て狙い撃ちされたのであろう。またスターリンは1933年の飢饉の責任をウクライナ共産党員になすりつけた。彼はウクライナ共産党員に対する公然たる批判を許した。

 1933年には教育のウクライナ化を促進した古参ボリシェヴィキでウクライナ共和国の教育コミサール(閣僚)であったスクリプニク(1872~1933)が自殺に追い込まれた。その他ウクライナ化を推進した有力な党員たちが自殺し、流刑となり、あるいはいずこともなく消えた。1933~34年にウクライナ共産党は10万人の党員を失ったという。

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 1930年代中期には民族楽器コブザやバンドゥーラを弾く盲目の吟遊詩人たちが大量に殺害された模様である。コブザ弾きは民族の叙事詩をコブザに合わせて吟唱するが、当局はそれが民族主義的であると敵対視した。彼らへの弾圧が語り始められたのはウクライナの独立後である。それによると1930年代の中頃ハルキフでコブザ弾きの大会が開かれ、その後彼らはハルキフから連れ出されて郊外の谷間に送られ、そこで殺されたらしい。数百人が殺されたともいう。しかしまだ文献上の証拠は見つかっていない。ただ1997年ハルキフ市は迫害されたコブザ弾きを顕彰する碑を建てた。

当時のウクライナ政府首相が自殺

 1930年代前半の粛清の対象は主にウクライナ人だったが、1936~38年になると粛清の対象はウクライナ人を含む全ソ連人に及んだ。ウクライナ政府の17人の閣僚が逮捕された後処刑された。リュブチェンコ首相(1897~1937)は自殺した。ウクライナ共産党員の37%にあたる17万人が粛清された。こうしてウクライナの共産党は壊滅状態になった。1930年代末には各共和国の自治はほとんどまったく死滅していた。スターリンは彼の子分を送って各共和国を治めた。ウクライナには1938年スターリンお気に入りのフルシチョフがウクライナ共産党第1書記として送られてきた。

 ソ連全体の教育、文化は一律化、ロシア化された。ウクライナでもロシア語の教育が必須となった。ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法がロシア語に近づけられた。ウクライナ人もプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーなどのロシア語作家の文学を読むよう奨励された。新聞・雑誌においてもウクライナ語が減った。こうして1920年代にかくも花咲いたウクライナ文化はこの時期にはすっかり死に絶えた。