芦田はキエフの製糖業財閥ガルペリン(ウクライナ語名ハルペリン)家とその仲間のベルニンソン家とはペテルブルグでしばしば食事をともにしたり、夜会で会うことも数知れないほどの仲であったので、キエフ訪問にあたっては同地の両家を訪れ、両家の夫人や娘たちと食事をしたり、四方山話に耽った。そしてその伝で同地の有力者らとも会ってウクライナ自治運動についての情報を得た。
しかし同時にキエフの街は騒然としていた。芦田の滞在2日目、キエフ滞在中の小ロシアの連隊が戦線行きを嫌って軍管区司令官を逮捕するなどの騒擾を起こした。3日目朝には、芦田は川向こうに退却した騒擾兵が打ち出す砲声で眼が覚めたという状況であった。
「ウクライナ自治運動」を冷めた目で見ていた理由
ただ芦田がキエフで会った人たちはロシア帝国における既得権益の受益者たちであったせいか、彼はウクライナ自治運動については冷たい。
今日ウクライナ運動が多少とも勢力を占めているように見えるのは、戦争反対の空気が民族独立の名をかりて愚民を動している結果に過ぎないのである。只北方ロシアに於いては親独党は反動保守であり、南方に於いてはそれがナショナリストと呼ばれているのは、独墺勢力が浸透している証左ともいえるであろう。
芦田のキエフ滞在は数日であったにもかかわらず、彼にはとりわけ想い出深いものであったようで、次のように記している。
ドニエプルの川蒸気の甲板で舷に砕ける波の音を聞き乍ら、私は次第次第に遠ざかって行くキーエフの寺の尖塔をぽつねんと眺めた。
私の見たロシアの中で一番になつかしみの多いこの古い都を今去って、又何時来ることかと思うと、僅かに四五日の馴染とは云い乍ら一脈の哀愁が胸に浮き上るのを覚えた。
……ドニエプルの流は右に左に曲りくねり、黄色い波に渦を巻いて滔々と流れている。右の岸には小高い岡が続く。処々に夕日に光った寺の屋根が見えたり、百姓家の赤黒い壁が顕れたりする。左手は収穫の終った一面の平野に枯草の束ねたのが豆を蒔いた様に点在している。静かに川岸にさ迷うている牛や羊の傍に、羊飼の子供が船を見かけて頭巾を振り乍ら大声に叫んでいる。枯草を積んだ渡船の船頭が歌う長閑な寂しい調子が川の面を流れる。太古の儘の静かな景色をじっと見ている中に、私の眼には何故とも知れず涕がにじみ上った。
芦田はこの約10年後在トルコ大使館勤務の時代にオデッサからクリミア方面を旅行したが、涙をもって別れたキエフを再び訪れることはなかったようだ。
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