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「僕たちが泊まるホテルは、ファンで満杯」

 大阪商業大学に進学すると、西日本では敵なしだった。4年間の在学中に、西日本インカレ、関西学生リーグのすべてを制覇。

 大学4年時に、神戸で開かれたユニバーシアードに日本代表として初選出された。日本はそれほど期待されていなかったにもかかわらず、この大会で優勝した。その年、日本で開催されるワールドカップに、ユニバーシアードのメンバーだった川合俊一、熊田康則、井上謙(ゆずる)、植田辰哉などが出場し、男子バレー人気に火がついた。ミュンヘン五輪に続く男子バレー人気の第二波が日本女性を襲った。眞鍋が少し鼻の下を伸ばし、懐かしそうに言う。

第二次男子バレーブームで眞鍋政義監督とともに戦い、自身も後に代表監督(男子)を務めた植田辰哉元監督  ©文藝春秋

「僕たちが泊まるホテルは、ファンで満杯。平日の練習も体育館が見学者で混み合っていた。今で言えば、韓流スター並みの人気だったんじゃないですか。僕も、川合さんや熊田さん、井上さんのおこぼれみたいなものですけど、ファンレターはダンボールで届いたものです」

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 かつて川合は、その人気ぶりをおどけながら語っていたことがある。

「大げさじゃなくて、バレンタインデーにはチョコレートがトラックで運ばれて来るんです。その一方、給料日間近になるとジュースを買うお金もなくて水を飲んでいました。だから、チョコレートではなく、腹の足しになるようなものを送ってくれればよいのに、って恨めしかった」

 男子バレー人気が沸騰していた1986年、眞鍋は男子バレーの名門・新日本製鐵に入社する。新日鐵には後に男子全日本監督となった田中幹保、植田辰哉が在籍、後輩に中垣内祐一が入社するなど、野武士集団のようなチームだった。誰もが自分の意見を引っ込めない。時には口論では物足りず、取っ組み合いの喧嘩にまで発展することがあった。

「当時の監督は幹保さん。彼は穏やかな性格だけど、常に『眞鍋、お前はどう思う?』って、いつも考えることを求められた。チームメイトとは四六時中議論していたし、このときに頭も心もガッツリ鍛えられた」