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“史上最悪の10位”

 88年のソウル五輪に初出場。男子バレー人気に後押しされ、意気揚々とコートに立ったが、予選リーグで1勝しかすることが出来ず、日本史上最悪の10位に沈んだ。世界の男子バレーは進化し、優勝したアメリカはリードブロックというオリジナルの技を編み出していた。井の中の蛙では、世界に勝てないことを悟った。

 だが、海外移籍などは考えもされなかった時代である。眞鍋の最大の関心事は、目の前のライバルだった富士フイルムを倒すこと。それには、ライバルを丸裸にする必要があると考えた。若い選手を試合会場に送り込み、攻撃のパターンやブロックなどを守備のフォーメーションに応じ6台のビデオカメラで撮影。今のようにIT機器がないため、その6種類のビデオを再生、一時停止し、ダビングを繰り返すのは気の遠くなるような作業だったが、富士フイルムの戦術が透視でき、選手個々の癖も手に取るように分かった。

 新日鐵の黄金時代が始まる。93年にその腕を買われ、30歳の若さで選手兼監督に就任。

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若くして監督に抜擢された眞鍋政義監督 ©JMPA

 だが、ソウル五輪に出場して以来芽生えた海外のバレーを知りたいという欲求は大きくなる一方だった。36歳になった眞鍋は、残された時間は少ないと焦った。

 日本の一流企業が抱える男子バレーの選手は、引退するとそのまま社員として働く。目指す企業に就職したいがために、学生時代バレーにはげんだと口にする選手もいるくらいだ。バレーはいわば就活の一環だという。もし、眞鍋が海外移籍を決めるとなると、新日鐵を退職しなければならない。そんな決断はまだ誰もしたことがなかった。

 眞鍋は周囲や家族の反対に遭ったものの、将来の安泰より挑戦する道を選ぼうと思った。

 99年イタリアのセリエA・イベコパレルモに移籍。海を渡った男子バレー選手第一号となる。

 世界で初めてプロリーグを発足させたイタリアには、各国を代表する選手が顔を揃えていた。戦術も高度で、レベルの高さは国際大会並みだった。眞鍋には毎日が刺激的で、自分のバレー観も大きく変わっていくのが分かった。