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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「意識レベルで日本は彼らに勝てない」女子バレーに28年ぶりのメダルをもたらした“挫折”

日の丸女子バレー #36

2022/04/16
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 2012年のロンドン五輪で銅メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。その監督を務めた眞鍋政義氏(58)が、2016年以来、5年ぶりに日本代表監督に復帰することが決まった。2012年10月22日、眞鍋氏はオンライン会見でこう述べた。

「東京オリンピックで10位という成績にかなりの危機感を抱いている。もし(2024年の)パリ大会に出場できなかったら、バレーボールがマイナーなスポーツになる“緊急事態”であるということで手を挙げさせていただいた」

 女子バレーは2021年の東京五輪で、“初の五輪女性監督”中田久美氏(56)が指揮を執ったが、結果は25年ぶりの予選ラウンド敗退。1勝4敗で全12チーム中、10位に終わった。

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 正式種目となった1964年の東京五輪で、記念すべき最初の金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー。だが、その道のりは平坦ではなかった。半世紀に及ぶ女子バレーの激闘の歴史を、歴代選手や監督の肉声をもとに描いたスポーツノンフィクション『日の丸女子バレー』(吉井妙子著・2013年刊)を順次公開する。(全42回の36回。肩書、年齢等は発売当時のまま)

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“データバレー”の原点

 中学までアタッカーだった眞鍋は、セッターの難しさを知っていた。だが、監督のアドバイスをすんなり受け入れた。

「他の選手と力の差を見せ付けられていただけに、自分の生き残る道はこれしかないと思った。この頃からですね、今の僕のポジティブシンキングがはじまったのは」

 監督からはこんなことも助言された。

「セッターは、誰よりもボールと仲良くならなければ良いトス、いいレシーブは出来ない。セッターとして最も大事な指先の感覚は、ボールにどれだけ触ったかで決まるんだ」

 眞鍋は監督の言葉をその日から実行した。授業のときはボールを膝に乗せ、教師の話に耳を傾けながら指先の感触を確かめ、寝る前は布団に仰向けになり天井に向けてパスを上げた。また寝るときはボールを枕元に置くなど、片時もボールを離すことはなかった。

ロンドン五輪時の眞鍋政義監督 ©JMPA

 眞鍋はバレーにどっぷりはまった。

 あるとき指を怪我し、コートの外から練習を眺めたことがある。よくよく練習を注視すると、コート内には情報がふんだんに詰まっていることを発見した。

「スパイカーの助走のコース、タイミング、ジャンプしたときの身体の向き、個人個人の癖、セッターのトスの高さ、球質……。目を凝らすと、かなりの確率でコースが予測できたんです。コート内の情報を拾って分析し、それを予測として活かせれば、レシーブもトスも、より確実なものになる」

 データバレーを標榜する眞鍋の原点となった発見だった。

 日々バレーを研究し、感覚として捉えていたものを頭の中で理論化してみると、セッター能力が格段に高まった。眞鍋は経験を得るのに必要な歳月を、頭脳という武器で飛び越えたのである。インターハイで1回、国体で2度優勝を果たす。