夫がクビになって初めて聞く話
庄野潤三「プールサイド小景」(1954年 第32回芥川賞受賞作)
ある日、夫が会社をクビになったら? 妻としては、考えたくもない仮定でしょう。しかも理由は、夫が会社の金を使い込んだから、なのだとしたら、もう修羅場になることは必至。――のはずなのですが、「プールサイド小景」では、別の方向に話が展開していきます。
妻は夫を責め立てる代わりに、自身の迂闊さに気付きます。夫は真面目でも意志強固な人間でもない。どうして何か間違いが起こると思わなかったのか? 夫の帰宅が毎晩、深夜であったことも気にしていませんでした。自分たちの平穏で幸福な日常がずっと続くと、何となく思い込んでいたのです。
夫がクビになって、夫婦はさまざまな話をするようになります。妻にとっては、夫がよく行くバーの話も、会社でつらい思いをしながら仕事を続けていた話も、初めて聞くことばかりでした。
それまで長く暮していた相手が、まるで見知らぬ他人
「いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮していて、その間に何を話し合っていたのだろうか?」。それまで長く一緒に暮らしていた相手が、まるで見知らぬ他人のように思えてくるのです。
もっと前に、夫婦できちんと話をしていたら――。そう思う読者もいるかもしれませんが、それはそう簡単なものではなかったでしょう。妻からしてみたら、毎晩遅く帰ってくる夫と話をする機会は限られたものであり、そうした場では小学生の子どもたちについての話が中心になるのは当然です。また、夫からしてみたら、仕事にやりがいが少しも見つけられない、なんて話は、妻にはできなかったはずです。ことに、妻子を養わなければならない、というプレッシャーを感じていた夫なのであれば、なおさら。
そのように考えると、この小説が描いているのは、サラリーマンと専業主婦という夫婦のあり方が孕む構造的な問題であるようにも思えてきはしないでしょうか。