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「ランドセルを背負ってここから学校に行ってたの。すごいでしょ。小学校から帰ってきたら寿司屋を手伝って、お客さんにもずいぶんと可愛がられたのよ」と懐かしそうに当時を振り返る。

 早稲田大学の学生達や専門学校生達に加え、1964年に東西線が開通し、山手線や西武新宿線と乗り換える通勤客が激増した。

「店前を朝早くから大勢が通過するのを見ていた父が、朝昼は立ち食いそば屋をやるのがいいのではとの提案があって開業した」という。草野さんがまだ28歳のことである。

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お店は3坪、昼はそば屋、夜は寿司屋の二毛作

両親に少しでも楽をさせてあげたくてそば屋をはじめた

 当時は街中に立ち食いそば屋がどんどん誕生していた頃で、高田馬場にもそんな波が押し寄せていた。そこで、知り合いの紹介で四ツ谷駅の麹町口を出てすぐのところにあった立ち食いそば屋に修業に行き、あっという間に開業したそうだ。

「とにかく、両親に少しでも楽をさせてあげたい一心でそば屋を始めたのよ。その頃には弟も父の幸寿司を手伝うようになってたのよ」と草野さん。

上がそば屋のカウンターで下が寿司屋のカウンター
「天玉そば」、「天ぷらそば」、「たぬき玉」が人気メニューだ

 開業当時の勢いはすごくて、とにかく学生やサラリーマン達が入れ替わり立ち替わり入店した。多い時は1日800人以上の利用者があったという。

「人波がすごく多くて、しかもみんな時間がないからチャチャッと作ってすぐ提供できて、すぐ食べ終えられるスタイルを提供するしかなかった」と草野さん。

 そこで、天ぷらは横浜の仕出し屋から仕入れ、そばは大手の製麺所の茹で麺を使った。つゆだけは自家製で、宗田節と鰹節の厚削りで出汁をとり、ザラメと醤油を併せて作っていたという。

仕入れの天ぷらはなつかしい味だ
宗田節と鰹節の厚削りで出汁をとる

「お客さんのリクエストに応えていくうちに、つゆがどんどん濃くなって現在に至っている」と草野さん。